施本文庫

何が平和を壊すのか?

争いの世界を乗り越えるブッダの智慧 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

勝利への王道

ブッダの教えは理解しやすく実践しやすく語られています。実践する人が必ず幸福になり、さらに実践を続けると完全なる安らぎである解脱を体験できるように説かれています。その実例として、一つの経典を参考にしてみましょう。ここで諸々の経典の中で、とても簡単だと思われるひとつを選びました。

古代から続くインド文化では「縁起担ぎ」の世界があります。仕事を始める時間を計算したり、方角を見たりといった迷信や縁起担ぎで人々が縛られていた。あるとき「真の縁起担ぎとは何か?」という論争が起こって、その問題がお釈迦さまにも出されました。その時、お釈迦さまが語られた「エンギ担ぎ―幸福な生き方」についての教えは、『吉祥経』という有名な経典(Suttanipāta 258-269)に収められています。難しい内容もありますが、一般的な常識で理解できるところも多いのです。

これからお釈迦さまが「エンギ担ぎ―幸福な生き方」として説かれた吉祥経を読んでいきましょう。当時のインド社会の人々だけに当てはまる縁起担ぎでないことがお分かりになると思います。

◎付き合う人を選んで自分作り

幸福に生きるための第一の条件は、「愚か者と付き合うな(asevanā ca bālānaṃ)」です。愚か者とは善悪判断もできない、どのように生きるべきか何もわからない人々のこと。そんな人と仲良くしたら不幸になるというのは分かりやすいでしょう。そこで第二、「賢者と付き合いなさい」と仰っている。知恵のある、善悪判断できる、道徳的な良き人々と付き合うべきです。自分より優れている人々と付き合うことで、知らないことをたくさん勉強できます。物事を判断できるしっかりした人間になることは確実です。

◎敬うべき人は心のより所

それから第三、「敬うべき人々を敬いなさい」となります。仏教徒にとって、両親とお釈迦さまは最も大事な存在です。他宗教における神様に対する敬愛と同じぐらい尊敬します。いつでも親を敬う気持ちがあると、何か落ち着いて気分がいいのです。これは親離れできない、精神的に未熟なコンプレックスとは全く違います。人として独立できたからこそ、独立するまで手助けしてくれた親を敬う。親を敬う気持ちがあることはよい大人になった証拠です。かといって、親の言うことを何でも聞くという意味でもない。親も人間ですからいろいろ間違い、失敗はあります。そうではあっても、何をおいても子供のことを心配して愛してくれることには違いないですから、親と意見が違う場合は一生懸命話し合うのです。説得力があった方が勝つでしょうね。

お釈迦さまの場合は完全なる人格者として尊敬します。仏教徒にとってお釈迦さまの教えに間違いはありませんから、自分の人生について、いつもブッダのアドバイスを参考にします。誰かに、悪事に誘惑されて流されそうになっても、「お釈迦さまには逆らえません」と思えば断る勇気が湧いてくる。先が見えない人生なので、誰でも何をやっても、どこかで不安な気持ちを持っています。「うまくいきますように」と祈りたくもなります。でも仏教徒は常にブッダに帰依し、ブッダを尊敬して生活するので、先が見えない不安を乗り越えられるのです。

仏教徒は先生たちにも敬意を払います。小学校から大学まで教えてくれる先生たちを死ぬまで大事にします。先生は退職して、畑で野菜を作っているかもしれません。いまは自分が大学教授になって遥かに有名になっていようと、かつての先生を訪ねたら、大変丁寧に挨拶します。

このように「敬う」という行為があれば、ストレスの多い、競争の激しいこの世の中で猛暑に涼風が吹き渡るよう、爽やかな気持ちで生活できます。敬うことで自分の独立性がなくなるわけではないのです。敬われる親や先生たちも一生懸命自分の責任を果たすことになるだけです。

この敬うという行為が「エンギ担ぎ」だとお釈迦さまは認めています。これがないから現代の社会はかなり息苦しくなっているのです。ためしに会社に入ったら目上の人々をちょっと尊敬してみてください。上司の言うことが無茶苦茶でも、先輩としての立場を認めるぐらいの気持ちがあれば、問題は起こりません。

◎自分にふさわしい場所がある

四、「自分に合った適切な所に住む(patirūpadesavāso)」ことです。住む場所も人の人生に大変な影響を与えます。自分に合う、いい場所を選んで住まないと、幸福になるのは難しい。勉強したければ、いい学校のある地域に引っ越したほうがいいし、何か商売をやりたければ、その商売がうまくいく地方へ移ったほうがいい。自分の職業や商売にふさわしい場所があるのです。その人にとって適切な場所を選ぶことも幸福になるための手段です。

◎自制は成功のもと

五、「善い行いをしておくこと」です。いつも善いことをしておけば、先々充実した毎日を過ごせます。老年になっても幸せでいられる。とにかく悪いことをしないことです。 
六番目は、atta sammā paṇidhi「自制」ということです。人はだいたい感情で行動して生きている。理性などは簡単に忘れてしまいます。そのために失敗もするし、不幸にもなります。ですから欲、怒り、嫉妬、恨み、「気分」、「気持ち」などの感情に負けないで、理性に基づいて生きる努力をすることが「自制」です。自分を磨くことだと理解しても構わないと思います。

それから(七)よく勉強し、(八)技術を学び、(九)道徳的な人間になることも必要です。「学校はいい成績で卒業したけれど、どんな仕事に就けばいいのかわからない」という人がいます。ただの勉強(理論)だけでは生きていけないとブッダは分かっていた。それは絶対否定できません。な学校の先生という職業は、ただ自分で勉強しただけでは勤まりません。実際に教えるという部分は技術です。お釈迦さまはちゃんと、「よく勉強すること」と「技術を学ぶこと」という二つの手段を示すのです。

◎「よく語られた言葉」をしゃべると頭脳明晰になる

十、「正しい言葉をきちんと選んでしゃべる(subhāsitā vācā)」ことも大事です。世間では、言葉に徹底的に気をつけることは、余り気にしないようです。しかし人間関係は言葉で成り立っていると定義しても過言ではないほどでしょう。「口は災いのもと」とも言います。Subhāsitā vācāの直訳は「善く語られた語」です。気分で感情的に発作的にしゃべるのではなく、よく考えて話しなさいという意味でしょう。この配慮がないために、人間関係のトラブルは尽きることがありません。

試みに、人の話を観察してみましょう。感情が溜まると、会話によって発散している例がよく見受けられますね。実際、人が話すことにはそれほど大事な意味は含まれていません。本当は単なる音のやり取りだと思っているほうが、安全な時もあります。しかし、聞く相手が真剣に聞いてしまうと困ったことにもなる。かといって人がせっかく話しているのに無視するわけにもいかない。それで、迷惑したり悩んだりしますね。

感情的に話す人は、他人に多大な迷惑を掛けているのです。人に迷惑ばかり掛けて、自分が幸福になれると思ったら、それはハズレです。考えをよくまとめて、言葉を選んで相手の反応も考慮して話すならば、他人に迷惑をかけることにならなでしょう。話したことも無駄にもなりません。何よりも、自分の頭脳が明晰になります。それが「エンギ担ぎー幸福な生き方」です。何か迷信を信じるより合理的な生き方だと思いませんか?

◎親と家族ヘの義務を果たせば信用がついてくる

十一、「両親の面倒をみること」も欠かせない義務です。ひとが大人になってから、親の面倒を見るのは当然のこと。どんなに偉くなってもこの義務を果たすべきです。親を無視する人は社会人として全く信頼できません。親さえも無視するような人は、世間の誰でも簡単に裏切れるでしょう。
豊かな社会が高齢化現象を起こすのは致命的な問題です。しかし人々が親の面倒を見ることを義務として感謝を込めて果たすならば、社会にとって残るのは子供がいない老人たちの問題だけです。子供がいない老人の数は問題にならないほど少ないのではないでしょうか。

十二、「家族の面倒を見る(puttadārassa saṅgaho)」ことです。自分の子供たちと奥さんの面倒を見るなんて当たり前じゃないかと思うかもしれませんが、この責任感が薄く、「私は仕事しているから」と言い訳をして子供の問題に関わりたがらない人は結構いる。母親だけではなく父親にも、子供のために果たすべき役割分担があります。それが欠けると子供は正しく成長しないし、家族の幸福が乱れてしまうのです。

多くの人は仕事のことでかなりの悩み苦しみを持っています。なんとか仕事を頑張っているが、疲れ果てて家のことや社会に関することなど何一つもできない。これも不幸の原因になりますから、お釈迦さまは十三、「複雑でない仕事をするように(anākulā ca kammantā)」と説くのです。簡単な仕事といっても、人それぞれ違います。ある人に簡単な仕事が別な人にはとても複雑で全く出来ないものです。人が自分にとって簡単な仕事を選んで働くならば、仕事の質に自分自身とても満足できて、他人にも役に立つ仕事になる。そうなれば、仕事は疲れるものではなく楽しい行為になる。自分がこなすべき他の義務も果たせる余裕が出てくるのです。

◎さらにワンランク上を目指す

十四、経済力のある人々は布施(dānaṃ)をしなくてはなりません。布施とは、助けてあげるべき人々を助けることです。豊かな人々が貧しい人々を無視すると、貧しさがエスカレートして社会的に犯罪行為が増えてしまう。結果として豊かな人々も安らかに生活することが出来なくなる。セキュリティーに金を掛けたり、警備員を雇ったりしても安全の確保はできません。もしもその余分なお金を他人のために使うならば、安全で幸せな社会が成り立つのです。

また豊かな人々は慈善組織なども維持しなくてはなりません。そして人に道徳を教える、精神的な安らぎを与えてくれる宗教のために援助する必要があります。宗教は経済活動をしないので、もしも社会が布施を怠れば活動はできなくなってしまう。自分が信仰している宗教に布施をすると、その宗教が自分自身に正しい生き方を教え、精神的な安らぎを与えてくれる。結局、与える分よりもはるかに多い結果を受けるのです。

私の所有物は私だけのもので、誰にもあげないぞ、という気持ちでいる人は、精神的にかなり暗い人間です。本人はお金があっても豊かさを感じない精神貧乏です。そんな人が他人の協力を必要とする事態に直面したとしても、誰も協力してくれないでしょう。協力する人が現れても、もしかすると金目当てかも知れない。たとえ僅かでも、自分でできる範囲で布施行為をする人こそが、豊かで幸せな人物なのです。

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この施本のデータ

何が平和を壊すのか?
争いの世界を乗り越えるブッダの智慧 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2003年5月