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なんのために冥想するのか?

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

第五章「常識」的な人間・人生とは――私たちの生きかたを素直に観察する

ここからは、常識的な人間とは何か、私たちの生きかたはどうなっているのか、というテーマについて素直に、正直に、インチキなしに観察してみましょう。

目標に向かって

・皆それなりの目標・目的を作って、それに向かって生きようとしています。
・しかし、ブリザード(大吹雪)を防寒服もなく、通り抜けるような厳しい生きかたになるのです。

ある目的・目標に向かって生きようとするけれど、その道はブリザードを通り抜けるように厳しいのが現実です。私たちに、その道を歩きとおす力はないのです。防寒服がないので、じきに死んでしまいます。ほとんどの人間が、目的に達しないまま死ぬのです。
はっきり言えば、すべての人間は、悔しさを抱いたまま、嫌々、死ぬのです。これが現実です。

・社会からの攻撃は計算済みです。

私たちが何かやろうと思ったら、社会はそれに攻撃します。しかし、これは初めからわかっていることです。学生さんたちが、就職のために面接に行くと、ほかの学生さんたちも応募しているので競争になることはわかっています。これは悩みの種になりません。ある会社が四人の求人を出したところで、二百人が就職試験を受ける。四人しか選ばれないということは、二百人の誰もが覚悟の上です。その場合、自分が選ばれなかったのは、自分より点数の高い仲間がいたからでしょう。それは社会的な攻撃ですが、誰も問題にしていないでしょう。

・自分のこころが内から反対して、破壊行動を起こしていることに気づかないのです。

私たちのこころが、破壊行動をしていることが問題です。この事実に気づいてほしいのです。
人は皆、社会と競争して負けるのではなく、自分のこころの攻撃に負けているのです。何をしようとしても、外から来る障害はわかりきっています。それには勝っても負けても、皆、納得するのです。
しかし、こころは成長したくない、怠けたいのです。それで何かに挑戦すると、やる気を失ってしまいます。「自分にはできるはずもない」と、精神的に負けを認めて落ち込みます。また、「いま面倒くさいんだから、あとでやります」と、やるべきことを延期します。それが怠けです。
またこころは、別な面白いことがあるのではないか、と思ったりします。こころにとって面白いことがあるならば、すでにそれをやっているはずです。それなのに、大事なことに挑戦するときに限って、「別な面白いことがあるはずだ」という気分になりがちです。すると、こころが曖昧状態・不安に陥って、挑戦をやめてしまうのです。
「内から来る攻撃」とは、そのようなものです。

こころの反撃行為

・「わかっちゃいるけど、やめられない」というフレーズで表現される状態です。

これは日本でよく使われる言葉ですが、なかなか立派なフレーズです。これが私たちの本当の状態であり、常識的な生きかたなのです。どんな人間も、「わかっちゃいるけど、やめられない」のです。これはなぜかと仏教から分析すると、「あなたの大脳が奴隷・人質にされているから」という答えが出ます。大脳を奴隷にしている、人質にとっている犯人は、原始脳なのです。

・怠けたくはないが、怠ける。
・欲張りたくはないが、欲張ってしまう。
・怒りたくはないが、怒ってしまう。
・無知なことはしたくないが、無知なことばかりしてしまう。

「○○したくない」と思うと、逆にひどくなってしまうのです。私は無知なことはやりたくないのに、他の人よりもやってしまう、という状態に陥るのです。怒りたくない、怒りたくないと思っていても、他の人より怒ってしまいます。

・必要なことを学んで憶えたいが、必要なことに限って忘れてしまう。

いらないことなら、いくらでも憶えているでしょう。認知症になる方々も、必要なことは全部忘れてしまうのに、どうでもいいことばかり憶えているのです。

・勇気を出せない。
・自信がない。
・根拠もなしに怯えている。
・明るく活発に生きてみたいが、こころは悩みで、心配で、落ち込みで、暗黒状態にある。
・嘘をつきたくはないが、ついてしまう。
・正直に生きたいが、現実はその反対です。
・こころを清らかにしたいのだが、やればやるほど汚れてしまうのです。

人間として一番タチが悪いのは、他人に「こころ清らかにしなさい」と教える宗教家・聖職者だったりするでしょう。人間の社会はそんなものなのです。

・「エゴをなくしたい」と努力すると、結果は気持ちの悪いエゴイストになって終わってしまいます。

結局、何一つも上手くいかないのです。

・外からの攻撃はなんとかなるが、内からの攻撃に勝てるでしょうか?

先ほど出した例ですが、入社試験に二百人が応募した。しかし、四人しか選ばれない。ある学生さんのお父さんが、この会社の社長と大変仲良しで、「ちょっと酒でも飲まないか?」と社長を高級レストランに呼んで、仲良くごちそうを食べて、「実は俺の息子がお前の会社の試験を受けた」と打ち明ける。そうすれば、「ああ、そう。名前は?」ということで、コネで受かってしまうでしょう。公の場合は違法ですけど、民間企業の場合は別に不正行為でもないのです。

ということは、外からの攻撃は裏で手をまわしてでも回避することはできます。しかし、内からの攻撃はどうにもなりません。お父さんは裏から手をまわして、我が子が仕事に就けるようにしてあげようと頑張ったのです。しかし、我が子にやる気がなかったらどうなる?自信がなかったらどうなる?わがままだったらどうなる?もう終わりでしょう。

内から壊れるこころ

・こころは貪瞋痴の感情によって活動します。
・貪瞋痴には、正しい判断も、正しい活動もできません。
・その上、生命は、安らぎ・安穏・幸福などを期待するのです。
・しかし、こころの基本衝動は、苦しみ・悩み・失望・落ち込みなどの結果をもたらす貪瞋痴です。

私たちは安らぎを欲しがるけれど、原始脳で、貪瞋痴によって生きているから、安らぎ・安穏・幸福などはあり得ないのです。貪瞋痴からは悩みしか生まれません。失望しか生まれません。

・だから、生命は自分が期待する目的に達する方向ではなく、反対の方向へと歩むのです。

すべて人間がそうなのです。さまざまな立派な目的を作って、それを目指して生きようとします。しかし、その生きかたは貪瞋痴に指導されているので、結果が現れる方向とは逆に進んでしまうのです。人は目的をめざしてガムシャラに努力する前に、内からの攻撃に対応する必要があるのです。

・要するに、こころは内から壊れるものです。
・自分の敵とは、結局、自分自身なのです。

Diso(ディソー) disaṃ(ディサン) yaṃ(ヤン) taṃ(タン) kayirā(カイラー), verī(ヴェーリー) (ワー) pana(パナ) verinaṃ(ヴェーリナン);
Micchāpaṇihitaṃ(ミッチャーパニヒタン) cittaṃ(チッタン), pāpiyo(パーピヨー) naṃ(ナン) tato(タトー) kare(カレー).

Dhammapada 42

敵が自分の敵に対してやることよりも酷いことを、
育てていない、調教していない我がこころが、自分自身にするのだ。

ダンマパダ四二偈

こころは放っておくと堕落する

・植物などは放っておくと元気に成長することもあります。
・自然をいじらないで放っておくならば、早く元に戻るのです。

たとえば人類は自然をさんざん破壊していますが、この地球上から人間が消えたら、わずか数十年で自然は見事に元に戻ると言われています。自然は人間が作った不自然なものを壊して、ものの見事に、もとの均衡状態に戻るのです。

・しかし、こころは反対の方向へ働きます。
・こころは放っておくと堕落するのです。
・汚れて悪に染まってしまいます。

他のものならば、放っておいても構いません。病気になっても、死に関わる病気でなければ、放っておけば治ります。しかし、こころだけは、決して放っておいてはならないのです。

結論――未完成のまま惨めに人生を終えたいですか?

・したがって、人は必ずこころを育てるべきです。
・こころを清らかにするべきです。
・信仰や迷信などに染まった、非科学的、非論理的な無責任な方法ではなく、お釈迦さまの説かれた現実的な実践方法で、こころを着々と育てなければならない、ということになります。
・人が冥想しないならば、他に何をすべきだと言えるのでしょうか?

人は何をすればいいのでしょうか? はっきり言えば、ただ冥想するべきなのです。他はすべて、二の次のことです。

・人格を完成し、幸福に満たされ、悩みを乗り越えて、人生を終えたいですか?
・答えがYESならば、冥想実践することです。

他に方法はないのです。

そういうことで、冥想実践はこころが成長する、こころが進化する強制的プログラムです。こころの進化は、四十億年待たないでも、四十日あれば完成する強制プログラムです。これをやらなくてはいけないのです。

話はこれで終了です。どうもありがとうございます。

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この施本のデータ

なんのために冥想するのか?
 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2016年4月29日