なんのために冥想するのか?
アルボムッレ・スマナサーラ長老
進化と退化の条件
・悪条件でなければ、肉体的・精神的進化はないのです。
私たちは進化を無邪気に喜んでいます。しかし、ちょっと待ってください。悪条件に遭遇しないと、進化が起こらないのです。なのに、人は誰も悪条件を期待しません。いつでも良い条件を欲しがります。もし、不運にも良い条件ばかりに遭遇したら、進化ではなく退化してしまうのです。進化するために悪条件が欠かせないというのは、おもしろいポイントです。
・条件がよければ「退化」が始まります。
そこで、私たちは周りの条件を変えようとしているでしょう。特に人間はある程度進化してから、環境を変えることになってしまったのです。いい条件を作ろうではないかと。これは、自分たちで自分たちの進化をストップさせようとしているのです。
人類は、飛行機を作って、新幹線を作って、パソコンを作って、インターネットを開発して、データ送信システムなど、あれこれ開発しながら環境を変えていきます。良い条件を作るために必死なのです。そのために、世界そのものを変えている。世界を変えることによって、私たちは自分の進化をストップさせているのです。
例えば、部屋に冷暖房をつけておけば、身体が温度差に適応して変化しなくても構わないことになります。進化とは、ものごとを変えることではなく、身体と精神の変化なのです。
では、進化が止まったらどうなるのかというと、退化するのです。ですから、今現在生きている私たちは、進化しているか、退化しているかということは、これはちょっとよくわからない。答えが出てこない。いわゆるどんな答えでも、それなりに理由があります。進化しているのだと言えば進化しているのです。
たとえば私たちの身体の形とか。たとえば博物館などに行ってみると、日本の昔の侍装束とか鎧とかがありますね。ある日それを見たら、あまりにも小さくて、本物ではなくて子供用ではないかと思ってしまったのです。それで一緒にいた人に訊いてみたら、昔は日本人の身体はそれぐらいだったそうですね。私たちは歴史のドラマなどを見て、立派なお侍さんだと言っている人々でも、皆おチビさんだったのです。
今の日本人などはどうでしょうか? 今の日本人とヨーロッパ人と一緒に並んでいたとしても、全然、どちらがどちらかわからないのです。ですから、そういう風に見ると、やはり日本人は身体的に進化しているのです。
しかし、別な面で見ると、進化どころではなくて、ひどく退化しているのです。学校に行きたくない、仲間とウマが合わない、仕事はしたくない、社会人になる勇気はない、人と挨拶したくないとか、そういうふうに精神的に弱い人間もたくさんいます。現代社会に適応できない方々です。
もう一つポイントがあります。私たちは自然環境を変えたのです。空気・水だけではなく、いま私たちの食べ物も、昔食べていたものと変わっています。変えたのです。酸っぱいはずのトマトが、いま甘いのです。ですから、いま生まれてくる子供たちは、破壊された環境に適応しなくてはいけないし、激しい電磁波に適応しなくてはいけない。添加物をいっぱい入れて店で売っているインスタント食品に、適応しなくてはいけないのです。
しかし、適応できない子供たちも生まれてきます。その子供たちはかなり苦しむのです。一つの例はアトピーです。私たちが普通に食べている卵、乳製品、小麦粉、お米、油などに激しく反応する身体を持って生まれるのです。いまの環境に適応できない人々には、生きることがとても辛いのです。家族と医療の協力があって、弱い身体を持って生まれる人々は、なんとか生きていられます。まことに悲しいことです。そうやって見方を変えてみると、いま私たちは退化しているのか、進化しているのか、どちらかよくわからないのです。
ここでは、「悪条件でなければ進化はない」ということだけ憶えておいてください。条件がよければ「退化」します。
こころの進化
・仏教はこころの働きを調べるのです。
・知識人が使う「進化」という言葉は仏教にありません。
・実際に起こるのは、「進化」ではなく「変化」です。
・したがって、物事は一定せず、止まりません。
・そこから、絶えず変わる、変化する、という「無常論」を発見します。
仏教から見れば、「進化」とはあまりにも肯定的な単語です。使いません。その代わりに「変化」といいます。物質的な世界も、生命体も、変化するのだと説くのです。
ダーウィンさんは「進化論」を発見して、くたくたに批判されました。仏教は、そうではなくて「無常論」を発見したのです。無常論は誰も理解しようとしませんが、それに対して、誰もケチをつけられないのです。
・こころの変化、進化の過程は興味深いものです。
仏教は進化論ではなく、無常論なのです。進化論の場合は生命だけ、地球上の生命体だけの話です。無常論の場合は、全宇宙のすべてが入るのです。地球外生命がいれば、その生命も入ります。変化しないと何も成り立たない、つまり「無常でなければ何も成り立ちません」ということですから。仏教のものごとを考えるスパンは、俗世間の思考とかなり違うのです。無常論から見ると、物質の変化だけではなく、こころも進化するでしょう。変化するでしょう。こころの変化に注目すると、ちょっとおもしろいことがあるのです。
・悪条件に晒されたら、こころは「悪くなる」方向に進化する可能性が高いのです。
身体が悪条件にさらされると、適応しようと思って強くなります。一方、こころが悪条件にさらされると、何かおかしくなるのです。たとえば、学校でいじめられても、いじめられた子は精神的に強い人間にならないのです。進化論が正しいのであれば、悪条件に適応して、とても頑丈な子に成長してほしいところです。実際には、頑丈になるどころか、登校拒否に陥ったり、自殺したりするのです。自殺までいかなくても、こころが悪くなるケースというのは、たくさんあります。
たとえば、私たちも悪条件にさらされたら、気持ち悪くなったり、怒りっぽくなったり、不信感に陥ったり、仲良くすることができなくなったり、凶暴になったり、犯罪をしたりと、こころが悪化してしまうでしょう。これは、ちょっとおもしろい現象です。なんだか、進化論とは全然合わないのです。ですから、お釈迦さまは「進化」という言葉を使っていないのです。その代わりに、「無常」と「因果法則」という言葉を使うのです。
・条件がよければ、また退化しようとします。
だったら反対に、条件がよければ私たちはすくすく育つはずでしょう。それも違います。学校は親切で、周りの環境が良くて、家の状況も良くて、必要なものはなんでもすぐ揃う、という環境で育つ場合は、進化するはずです。
しかし、結果は怠けに陥ってしまうのです。頑張らない人間になります。条件が良ければ退化するならば、条件が悪ければ進化するはずでしょう。逆にいうと、条件が良ければ進化するならば、条件が悪ければ退化するはずです。こころの変化の場合、このように明確なことはいえないのです。
こころとは、条件に関係なく一方的に退化しようと頑張っている組織のようです。これはとてもおもしろい現象だと思います。興味を持って理解してください。こころの進化は身体の進化と違うのです。
・しかし、稀な場合は、悪条件で発展したり、良い条件で発展したりすることもあり得ます。
これは稀なケースですから、仏教でそんなことを言っているのかと皆さん疑われるでしょう。仏教のテキストは少し古いものですから、言いかた、表現方法が現代と異なっているのです。
仏教の世界には、ジャータカ物語という説話文学があります。お釈迦さまの前世物語だと信仰されていますが、事実はどうかよくわかりません。そのストーリーの中で、いつでも主役は菩薩だと決まっています。だから、菩薩が主役を演じる物語をすべてジャータカ物語というのです。菩薩とは覚る以前の、お釈迦さまの前世です。ジャータカ物語には、お釈迦さまの前世物語というより、仏教が私たちに言いたい、教えたいことがらがストーリーの形で説かれているのです。
仏教の世界では、「覚る前のお釈迦さまも、正しく生きてみようと挑戦してきたのだ」という前提があります。ジャータカ物語の中で、菩薩はどんな悪条件でも見事に乗り越えてみせます。良い条件だったら、それまた見事に乗り越えてみせる。そういうストーリーばかりなのです。
この「悪条件であろうが良い条件であろうが人格を向上させる」という菩薩の性格は、人間の中でも稀なものです。ジャータカ物語で語っているのは、条件が悪いなら悪いで、良いなら良いで、いかに自分が成長するのか、という教訓なのです。
・「昔より今、われわれは進んでいる」という言葉に裏付けはありません。
まとめて言えば、私たちはよく「昔よりは進んでいる」と言いますが、あまり裏付けはないということです。だって、進化は良いものなのか悪いものなのかわからないでしょう。そんな、白黒決められません。ですから仏教の言葉を理解すればよいのです。アメリカのキリスト教の方々は、進化論に反対でしょう。ヨーロッパでは反対しませんけど、仏教ではもっとクールなことを言っているのです。「進化ではなくて変化である。仏教は無常論なのだ」と。
この施本のデータ
- なんのために冥想するのか?
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2016年4月29日