なんのために冥想するのか?
アルボムッレ・スマナサーラ長老
科学的こころの運動
肉体に必要な運動ですが、いい加減にやってはダメなのです。きちんと科学的に調べてトレーニングしなくてはいけない。こころの場合も同じことです。こころにも運動が必要です。いい加減にではなく、科学的に取り組まなくてはいけません。身体もエネルギーで、こころもエネルギーなのですから。
・ブッダはこころの働きを科学的に発見して、こころを健康に保つ方法を説かれました。
・冥想とは、その実践方法です。
コーチについてコーチの指導のもとで筋肉トレーニングするのと同じく、冥想もまた指導のもとで正しくこころの運動をすることになります。こころの働きを知っている人の指導が欠かせないのです。物質と同じく、こころも一種のエネルギーです。このエネルギーの働きかたは、物質エネルギーの働きかたと違います。物質には進化がありません。合成したり分解したりという変化はあります。
こころというエネルギーには進化があると理解しましょう。私たちはこころを成長させてないから、こころは自分の力をほとんど発揮できず、とても弱く機能しているのです。こころの働きを妨げる汚れが、いっぱい溜まっています。こころを成長させるとは、冥想という方法によってこころの汚れを落とし、意図的に進化させることです。
・インド文化のほかの宗教も冥想を推薦しています。
冥想は、仏教の専売特許ではないのです。もしかすると、冥想を始めたのはインド文化かもしれません。インドにいま現在あるバラモン系のヒンドゥー教文化では、文学的に調べると、それほど冥想文化はないのです。しかし、モヘンジョダロ、ハラッパーといった古代文明の出土品を調べたところ、宗教家が冥想しているように見えるシール(印章)などが発見されています。
巨大なインド半島には、冥想の文化がもともとあったにも関わらず、アーリア民族に占領されたことで、ただの戦争文化になり下がってしまったのです。アーリア民族が奉じたヴェーダ聖典には、冥想について何も書かれていません。ヴェーダ聖典は紀元前三千年頃の作品です。ヴェーダの次に出てきた、ブラーフマナという注釈書にも、冥想のことはあまり出てこないのです。
それからずいぶん時間が経ち、紀元前六百年頃にアーラニヤカという大部の文献が現れます。アーラニヤカとは「森に住む」という意味の単語です。その頃になってくるとバラモン人も、森で修行してもいいのではないかという感じになったようです。
ということは、アーリア人がインドを侵略してもう二千年ぐらいたってから、お釈迦さまの時代より少し前になってようやく、「修行してもいいのではないか」と思うようになったのです。これは、もともとインドにあったネイティブ文化の影響が入ったためではないかと推測できます。
それから、ウパニシャッドという文献では、冥想を推薦しています。ウパニシャッドが生まれたのは、お釈迦さまとだいたい同じ年代です。お釈迦さまが生まれて活動していたときは、現在のように多数のウパニシャッドはなかったのです。お釈迦さまはウパニシャッドをよくご存じで、内容の間違いを示して批判されたことも経典に見られます。
しかし、ウパニシャッド文献の具体的な名前は一つも出てこないのです。要するに、冥想とこころの働きについて、様々な師匠たちが考えたことはあっても、文献にはなっていなかった、ということです。
以上のように、実際のところ、インドにおいても冥想の文化はじわじわ表面に現れてきたもので、その起源はモヘンジョダロやハラッパーなどの古代文明にあると言えるようです。
・既存の冥想は、身体に「永遠の魂・ātman」が宿るという信仰のもと、魂を浄化する目的で行われました。
インド古代文明の時代にも、冥想というこころを成長させる方法はあったかも知れません。しかし、その実情はまったくわからないのです。私たちが文献的に知ることができるのは、紀元前六世紀頃から徐々に現れて発展した思想です。インドは冥想を発明・発展させた国だと言っても構わないのです。
冥想修行に励むインドの人々が前提としていたポイントがあります。それは、「肉体を動かす力は魂である」ということです。「魂」と、お釈迦さまが仰る「こころ」は、同義語ではありません。彼らは前提として、魂には、永遠不滅であること、至福であること、という特色があると信じていたのです。それに反対して、「魂は永遠不滅ではない。死後、断滅するのだ」と説く人々、また「魂は至福ではない。苦・楽の両方がある」と説く人々、「魂は苦のみである」と説く人々もいました。魂のスケールについても、様々な意見がありました。有限という人も、無限という人もいたのです。魂はどのように現れたのか、ということにも、異見があったのです。「永遠であるから、始原はない」「魂はいつか突然、現れた」「突然現れたので、いつか完全に消えることもある」などなどの異見です。ジャイナ教は、魂は全知全能であると説きました。
魂についてはかくも多くの異見が花開いていましたが、主流のバラモン教(現代のヒンドゥー教)では、それほど見解の差はなかったのです。魂について異見を持っていたのは、非主流の宗教家たちです。インドの修行者たちが、冥想実践や苦行など他の修行方法をおこなう理由は、魂を浄化するという目的のためでした。
お釈迦さまは科学者でしたから、この話に笑ってしまうのです。「魂を浄化しようと励む前に、まず魂があるか否かを確かめなさい。魂があると仮定して、それから実践方法を組み立てるのはおかしいのだ」と。
冥想を始めるにあたって、「もしかすると魂みたいなものがあるのではないか?」と仮定するところまではいいのです。それから、魂を発見するために研究するでしょう。これを科学的にいいかえれば、「仮説を立てて研究しなければならない」ということになります。
しかし、インドの人々は最初から「魂がある」と断定して疑わなかった。お釈迦さまはそのポイントを非難して、他宗教の冥想方法には、根本的な間違いがあると示されました。とはいえ、完全に間違っているとも説かれなかったのです。
お釈迦さまは「魂がある」というその仮説について研究しました。徹底的に調べて、「魂というものはない」という結論に、明確に達してしまったのです。
まず、無常という事実は、すべての現象に対して当てはまります。無常でなければ、世の中は成り立たちません。魂は常住なので、無常とは正反対です。ゆえにインドの既存宗教は最初から上滑りしているのだ、と切り捨てて、自分自身で真理を発見することにしたのです。
そのようなわけで、「ブッダの冥想と言っても、インドにあった冥想でしょう?」と言われてしまうと、私たち仏教徒たちは、素直に賛成することはできなくなるのです。
宗教の冥想と仏教の冥想
・宗教とは信仰について語るものなので、神秘的ではあるが、科学的ではありません。
諸宗教の冥想は神秘的なものです。しかし、だれも魂を発見していないので、信じるしかないのです。信じることに頑張るならば、すべては神秘ということ、ミステリーということになります。これは定義的にそうなるのです。
・そのため、冥想は日常的な生きかたから離れた、神秘体験を求める作業になってしまうのです。
世の中の冥想とは、日常生活から離れて神秘体験を経験しようとする努力です。インドの冥想であっても、日本で行われている冥想であっても、神秘体験を目指しているのです。西洋人にとっては、ちょっとした現代社会向けにアレンジされたアクセサリーという感じでしょう。
・仏教の冥想は「こころの科学」です。
インドの宗教では冥想にyogaという言葉を使います。皆さんはヨガと呼びますけど、正しい発音は「ヨーガ」です。ヨーガというのは、いわゆる真の魂と個の魂を繋げること、合体させることです。ヨーガとは「合体」という意味なのです。
真なる大本の魂と、自分が持っている小さな個の魂を合体させることにヨーガというのです。それに対して仏教では、「bhāvanā・成長・向上のプロセス」という言葉を主に使っています。とは言っても、ヨーガ、ヨーギという言葉は仏教経典にも出てきます。冥想することをyuñjatiといったりします。
しかし精密に、専門的に定義するならば、「仏教の冥想とは、こころの科学である」という定義になるのです。
この施本のデータ
- なんのために冥想するのか?
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2016年4月29日