「死」は幸福のキーワード
~「死隨念」のススメ~
アルボムッレ・スマナサーラ長老
死を観察せよ
世の中では、「死」というと何か不吉なもの、恐いもの、不幸なものというとらえ方が一般的だと思います。
仏教はまったく反対です。「死」という単語自体、幸福のキーワードなのです。「死」は幸福、これはもう紛れもない事実だとするのです。
お釈迦様は、出家に「死を観察しなさい」とおっしゃいました。日本語では死随念(「死の瞑想」)と言います。「どんな生命でも死ぬ」ということを、自分なりに観察するのです。
具体的に観察して「生命は死ぬ」という事実を念じて確かめます。在家の方々でも「死を観察する」ことは十分にできます。人は誰でも死にますからね。理性に基づいてさえいれば、どのような観察のやり方でもよいのです。
仏教の世界では、「死を現実のこととしてしっかり見る」ということは、一般の方々も行っています。
宗教のベストセラー商品
人は誰でも死にます。ですから、観察することも難しくないのと同時に、いい商売にもなっていますね。「死」というのは、世界の宗教にとって、とてもいい商品になっています。
今、世界同時不況と言われ、いろいろな分野の会社がたくさん倒産しています。しかし世界のあらゆる宗教は、なかなか倒産しません。このまま不況が続いても、すべての宗教が倒産することはあり得ないでしょう。なぜかというと、誰もが死ぬからです。宗教は「死」を商売にしているのです。
まぁ、テーラワーダ仏教が倒産しないかどうかは、ちょっとわかりません(笑)。しかし、世界の宗教は「死」を商売にして成り立っていて、億単位のお金を稼いでいます。
世の中の宗教が「死」を商品として扱うことで儲かっているのは、「人々は死が大嫌い」という事情があるからです。
みんな、「死」は絶対的に嫌なことだと思っています。「断固としてお断り!」というぐらい「死」に猛反対です。それは頭で考えて反対しているのではなく、もっと理屈ぬきの拒否です。「絶対に認めたくない」という厳しい反発です。絶対に認めたくない現象が「死」なのです。そして人間が一番引っかかる現象が「死」です。「死」より引っかかることは、何一つありません。「死」という現象に、すべての生命が引っかかります。
「人は死が大嫌い」という話は、仏典にもあります。仏典によれば、神々も死ぬことになっています。「神であっても死ぬし、死に対しては神々でさえもそうとう心配して、恐くなって困るのだ」という話が、仏典の物語の中にもけっこうあります。神ですら死ぬのが怖いのですから、私たちふつうの人間は言うまでもない、ということなのです。
この「人は死が怖い」ということがポイントです。神でさえも怖がるぐらい強烈な怖さですから、つけ込みやすいのです。
人は怖がっているとき、簡単に脅されてしまいます。簡単に弱みをつかまれます。実際、世間の宗教は、「うちの神様を信仰しなければ、あなたは地獄に落ちますよ」と、「死」を脅し文句として使っています。
日常生活を問題なく送れる元気のある人々にも、死の床についている人々にも、「これを早く信仰してください。このやり方を早くやってください。でなければ永遠の天国には行けませんよ」ということを、優しい言葉で、脅しとは感じないように巧妙に脅して、ビジネスを成立させています。
「永遠」はあり得ない概念
死に怯える人々を安心させる言葉として、宗教では「永遠の天国」と言いますね。この「永遠」という言葉をきちんと考えてみましょう。まともな人間なら、とても使えない単語です。
「永遠」、エバーラスティング(everlasting)という言葉の意味するところを考えれば、そんなことは決して言えないでしょう? 100年、200年、1億年などという具体的な時間なら言うことができます。しかし、「永遠」というのは、あり得ない概念です。
瞑想会をやっている名古屋のお寺に、キメラ(chimera)がいました。「いた」と言っても、生き物ではなく造形物です。そのお寺のご住職様と話をしていて思い出したのですが、キメラはギリシャ神話に出てくる神話上の動物です。頭はライオン、胴はヤギ、尾は蛇で火を吐くそうです。ギリシャ神話にはキメラの他にもグリフィン(griffin)など、神話上の動物がたくさんいます。
それらは実在しない、神話の中の生き物です。「永遠」というのも、キメラやグリフィンと同じ、あり得ない、神話上の、架空の概念なのです。
キメラやグリフィンのように、存在もしない、あり得ない、考えられない「永遠」という概念が、なぜ頭の中に生まれたのでしょうか。
「永遠」は、「死」の反対語(antonym/反意語・反義語)なのです。死ぬことは確実です。では、死の反対語として「永遠」という言葉を作ったとして、作るのは簡単ですが、それがちゃんと成り立つ言葉かどうかというのは別問題です。
反対語といえば、「高い」には「低い」という言葉がありますし、「寒い」には「暖かい」という言葉がありますね。「おいしい」には「まずい」という反対語がありますね。
だからといって、「椅子」や「机」の反対語はあるでしょうか? ありませんね。どんな言葉にも反対語が成り立つわけではありません。「高い」「低い」というような反対語は、むやみに使えるものではないのです。
お釈迦様は、この反対語のからくりには引っかからず、「『おいしい』の反対語は『まずい』ではなく、『おいしくない』という言葉があります」とおっしゃいます。「寒い」の反対語は「暖かい」ではなく「寒くない」なのです。「高い」の反対語は「高くない」です。どうでしょう? お釈迦様のこの論理なら、誰にも否定できませんね。「机」にだって反対語があります。「机ではありません」です。
言葉というのは、具体的なものです。「机の反対語は何ですか?」と質問されても、答えは頭に浮かびません。「そんな言葉、あるわけないでしょう」と言いたくなります。
しかし、「机ではありません」とは言えますし、その言葉が指す具体的なものはいくらでも、無数にあります。つまり、肯定語よりは否定語のほうが、かなり自由がある、広がりがあると言えるのです。
自分の基準に縛られる人々
「『高い』の反対語は『低い』です」と言ってしまう人々は、何もわかっていません。思考に広がりがなく、自由がありません。
まず、「私」が作ったイメージで「高い」と決めています。「私」の頭のリミットは、まったく広がらないのです。
「思考が広がらない」「頭のリミットが広がらない」というのはどういうことか、説明します。
たとえば、何かを食べておいしいかまずいか、それを決めるのは、食べた「私」ですね。
仮に、とてもおいしかったとします。その「おいしい」というのは、「私」による何かの基準でそう思ったということです。逆に「まずい」と思うときも、「私」の基準に合わせて「まずい」と感じています。
「高い」「低い」の場合も同じです。2メートルのものを何か見て、「これってけっこう高いなあ」と思ったら、それはその人の「高い」と感じる基準で言っています。
お釈迦様は「高い」「低い」とは考えず、「高い」の反対語は「高くない」だとします。たとえば富士山と、別の日本の山を比べたら、「高くない」という言葉を使えるでしょう。
これに対して、「2メートルが高い」と感じる人の頭には、富士山もヒマラヤ山脈も浮かぶことはありません。「2メートルは高い」という考えの範囲には、2メートル以上のものが入る余地がないのです。その人の頭はいつでも2メートル以下のことに限られてしまいます。もっと高いものを考える思考の広がりがないのです。
宗教の世界では、「死」の反対語は「永遠」とされてしまいました。本当のところはどうでしょう? 「死」の反対語は「不死」です。「死なない」です。「永遠」ではないのです。
しかし、自分の基準で「永遠」と言ってしまったので、「死」ということが、自分の死だけに限った、すごく狭いものになってしまいました。「死」を自分の基準でとらえてしまったのです。
この施本のデータ
- 「死」は幸福のキーワード
- ~「死隨念」のススメ~
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2010年11月21日