「死」は幸福のキーワード
~「死隨念」のススメ~
アルボムッレ・スマナサーラ長老
なぜ否定語を用いるのか?
皆さんもよくご存じの「貪・瞋・痴」という言葉がありますね。反対語として、「仏教では『不貪・不瞋・不痴』を目指しましょう」と言います。
すると私に、「不貪・不瞋・不痴を説明してください」と言う人がいるのです。私は「それは無理です」と答えます。そう言うとみんな嫌な顔をして、「きっと、説明したくないか、よくわからないかのどちらかでしょうね」と思うようです。
そう思っていただいてもけっこうですが、説明できない理由は他のところにあります。「不貪・不瞋・不痴」の状態はわからないので説明しかねるのです。
貪瞋痴の反対語、否定語で「不貪・不瞋・不痴」というのは、「涅槃」「解脱」を意味します。すべての概念を乗り越え、一切の心の次元を乗り越えて、完全たる自由を獲得した状況を示すのです。
私の立場から欲の説明はできます。何しろ自分に欲がありますから、よくわかります。しかし「不貪」の説明は、いくら言葉を尽くしたところで、実際になったこともない状態はわからないのです。
不貪とは、単なる「貪らない状態」ではありません。「自分にいまある欲がない状態」です。ものすごく意味が広がっているでしょう? 「不貪」とは、ちょっとケチがなくなった、という程度ではありません。その程度で「貪りがない」などとは言えません。ちょっと30分ぐらい怒らないでいただけで「不瞋状態にいるのだ」などというケチな話ではありません。
仏教では貪・瞋・痴に「不」という言葉を入れて反対のことが語られます。常に反対の言葉であらわしたことで、限りなく、仏教でいう「無量」に広がります。否定語にした反対語は、仏教では、意味が限りない広がりを持つのです。
「死」につけこむビジネス
ところが、世の宗教は「死」の反対を「永遠」にしてしまい、「永遠な命がある」と言います。本当のところは、その言葉さえも成り立ちませんし、理解できるものでもありません。何より、立証は絶対にできません。無理です。立証できないものがあるのに、どうやって結論に達するのかという、とんでもない無智な話なのです。
しかし、「永遠の天国」「永遠の命」というフレーズで、宗教は人々に強烈な欲を作ってあげています。証明もできない「永遠の命」というフレーズやそれを謳う宗教にニーズがあるのは、「私は死にたくない」という、生命みんなが抱えている不安があるからです。不安をごまかしてくれる「永遠」という言葉に、人々は簡単に飛びついてしまいます。「永遠」は、とても人気があります。
人間は、本当に、どこまでも「死」ということに弱いのです。簡単にやられてしまいます。「子孫がいなかったら家が途絶えてしまう」と考えて困ったり、子供がいない場合は、「自分が死んだらどうしようか、誰にもお経をあげてもらえない」と悩んだりします。あるいは、ものすごくお金をかけてお墓を作ったりして、みんな一生懸命です。
人間が皆、かなり「死」に対して弱いという現実の中で、賢く商売をするのが宗教です。次々と新しいアイディアを出して客が逃げないように工夫します。
今は、「合同墓地」というのが人気らしいですね。昔の共同墓地とはまったく違います。デザインもとても現代的でかっこよく作られていて、見学に行く方も多いそうです。
日本は少子化で、子供がいなかったり、いても遠方に住んでいて、そうそう親のお墓参りに来られなかったり、あるいは独りぼっちだったりする人も多いです。そういう人のために考えられた、個々のお墓ではなくみんな一緒に納骨されて、お寺がずっと供養(永代供養)をしてくれる、というお墓が人気なのです。
もし、独りぼっちで死んでも、遺体の始末だけ、誰かがきちんとやってくれればありがたい、という感じなのです。ずっと供養してくれるという契約を交わすと、やはり人々は安心するのです。
そういう実態を見ると、私は「ああ、やっぱり宗教は社会が変わるたびに商売方法も変えて、ずいぶん儲けているな」と思います。いつの時代も頑張って儲けているのは、やはり「誰でも死ぬ」からなのです。
洗脳を解く
もし、我々が「人間はかならず死ぬのだ」と、しっかり認識すれば、問題から解放されます。宗教ビジネスの謳い文句に踊らされることはありません。
仏教では、人間だけでなく、一切の生命の中で死なないものがいるのか、一切の存在の中で壊れないものがあるのか、「しっかり調べなさい」「目を覚ましなさい」と教えます。
我々はマインドコントロールされて、洗脳されているのです。特定の宗教にではありません。社会に、世の中に、伝統文化に、見事に洗脳され、コントロールされているのです。ですから、ものごとがきちんと見えなくなっています。
もし、ありのままを見たら、何でも壊れるものだとわかります。人は誰であれ、必ず死にます。この事実をありのままに見れば、お墓のことを心配して莫大なお金をかける意味はなくなります。
ものごとは、常に変化し続けています。いつなんどきどうなるか、まったくわかりません。今、生きている私も、生きているあなたも、秒単位でずーっと変化し続けます。わずか2~3分後でさえ、どうなるかわかりません。2~3分後に、生きている保証はありません。しかし、2~3分後も目立った変化は何も起こらないかもしれません。そのときでも、確実にその時間ぶんだけ、「老いる」という変化が起きています。
我々は平気で「無事」「何もなかった」とよく言いますが、間違いなのです。「何もなかった」ということはあり得ません。すべての物事は変化しているのです。
仏教用語では「無常」と言いますね。ものごとは瞬間、瞬間、変化しています。そのことをしっかり観察すると、まずどうなるのかというと、マインドコントロール、洗脳が消えるのです。洗脳が消えると、どうなると思いますか? 何も、誰も、恐くなくなります。そして「死」が、恐くなくなります。ものごとを自分で考えられるようになります。
いつも、自分で見るのです。自分で調べるのです。そうすることで、一切の束縛がなくなります。解放されます。
今、洗脳されている人が洗脳から脱して、何も恐くなくなって自分でしっかり考えられるようになったら、どれほどありがたいことでしょうか? どれほど心が安らぎを感じるでしょうか。仏教は、それを推薦しているのです。
「永遠な天国」などというあり得ないものを勧めるのではなく、「世の中のマインドコントロールから解放されましょう」と勧めるのです。
無常に逆らおうと一生懸命
マインドコントロールを解くために、仏教は「死を確実に観察しなさい」と教えます。死を観察することは「無常」を観察することでもあります。「無常」をきちんと理解すれば、問題はすべて解決なのです。不安も、悩みも、いら立ちも大幅に減っていき、インチキに騙されることもなくなります。
それなのに「無常」と聞いて、人間はバカなことを考えるのです。「だったら無常を何とかしましょう」「無常ではなく、変わらないようにしましょう」とするのです。
たとえば、切り花は枯れるでしょう? 無常です。刻々と変化して枯れていきます。それに対して、「枯れないように」と考えるのです。水に浸けたり、さらに長く保つ栄養剤も入れたりして、「この無常をなんとか止めてみよう」ということをあれこれとやってしまいます。
これはちょうど、「絶対に倒れない、壊れない家を造るぞ」と思うことと似ています。「震度8ぐらいの地震にも耐震性があります」などと自慢できる家を建てたところで、地球のエネルギーは、まだまだわからないことだらけです。計算上、「震度8」より大きなエネルギーが生じない保証はありません。極端に言えば、もし地球が壊れたら、どんなに高い耐震性を備えた家でも壊れないはずがないのです。
私たちは無常に逆らおうと、一生懸命、いろいろなものを作り、いろいろなことをやっています。1秒でも「無常」を止められたことはないのに、なかなかめげません。ずっと頑張り続けています。
無常を否定することは、死を否定することです。そして無常・死を否定することは、切り花を長くもたせようと思うことと同じです。無駄なこと、無理なことに頑張る人間になってしまいます。
切り花をわざわざ長もちさせようとすれば、「1日で枯れる花が、3日もちました」というくらいの結果が出ることはあるでしょう。それで人は調子に乗ってしまい、余計なことをあれこれ始めます。「切らずに放っておけば、3日どころか1週間もつはずだったのに」ということは考えないのです。樹木などは、切らなければ軽々と、100年でも200年でも何のこともなく頑張るでしょう。それなのに、伐採して、あらゆる薬を入れたりして長もちさせようとします。それでうまくいっていると思っていても、よく考えればただ無駄なことをやっているだけ。努力・能力を無駄に使っているのです。
枯れてしまう花を少しでも長もちさせられるよう、新しい栄養剤の研究に前向きに取り組んでいるとします。やっている人間は、無駄なことだなんて考えません。むしろ楽しんで研究に励みます。
それはそれで構わないですが、その生き方で得られるのは楽しみだけではないのです。開発をするために、楽しみとは比較にならないほど苦労して、苦しみを感じなくてはならないのです。
たとえば、人間の病気を治す薬の開発について考えてみましょう。人々を苦しめる病気の原因となるウイルスが発見されたとします。すると「このウイルスを殺せれば治療できる」となるでしょう。そこで、何百億もの大金を投じてあらゆる実験をして必死に薬を開発します。そうやって、やっと新薬ができたと思ったら、いとも簡単に、今度はどんな薬も効かないウイルスが現れたりするのです。
では、薬を開発せずに放っておいたらどうでしょうか? 人間の身体の対処法というのは、賢いのです。何かのウイルスが入ってきたら、最初は何の免疫力もないのですが、「これはどんなタイプのウイルスか」と調べて、それにだけ合わせる抗体を作ります。
我々から見れば、「せっかく抗体を作るならばすべてのウイルスに対する抗体を作ってしまえばいいのに」と思うかもしれません。しかし、身体はそんな無駄なことはしません。入ったウイルスだけに抗体を作ります。それから別のウイルスが入ってくると、それに合わせてまた抗体を作ります。それを繰り返すと、身体の血液の中は抗体だらけになってしまうのです。その時点でリミットがはたらきます。いくら何でも、無限に抗体を作れるわけではありません。
我々は病気になると、いろいろな薬を体内に入れて身体の免疫システムに影響を与えてきました。ウイルスには頭がないので、頭がいいとか悪いとか言えませんが、ウイルスにはウイルスの考えがあります。最近のウイルスは、遺伝子情報を次から次へと変えるのです。一つのウイルスを捕まえて攻撃しようとすると、ウイルスが形を変えて逃げてしまいます。そうなると現代医学もお手上げです。何の対処もできません。こうなると、身体にも何もできなくなっています。いくら身体が武器を作って持っていっても、本人(ウイルス)の形が変わってしまって、武器は効かないのです。
ウイルスとの戦いでも明白なように、いつでも我々人間は「負ける寸前」になってしまいます。逆に言えば、そんなに苦労するのは、死を否定して、無常を否定しているからなのです。
この施本のデータ
- 「死」は幸福のキーワード
- ~「死隨念」のススメ~
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2010年11月21日