施本文庫

「死」は幸福のキーワード

~「死隨念」のススメ~  

アルボムッレ・スマナサーラ長老

観察自分にフィードバックする 

世間では、ブッダも宗教家の分類に入ります。しかし、ブッダは人を脅してから慰めるなどということはしません。「死を観察しなさい」という教えも、脅しではありません。明るくニコニコと、理性ある者として「死を観察しなさい」と勧めるのです。 

具体的に、どう死を観察すればよいのでしょうか? 自分の死を観察するのは難しいので、世の中の死を観察します。そうすると、「死」がよく見えるようになります。 

我々人間は、死を「無視」するのが普通のスタンスなのです。知らない人が死んでしまっても、「そんなの知ったものか」と残酷な態度を取るのです。ところが身内の誰かが死んでしまったら、ひどく大騒ぎする。それはカラスの生態と似ています。カラスは、ちょっとでも巣のそばに近づいたら攻撃しますが、他の生命なら何でも殺して食べます。他の鳥たちのヒナを取って食べるくせに、「自分の巣のそばには来るな」と言うのです。それは、人間の死に対する態度と同じです。人間がカラスと同じでいいのでしょうか? 

世の中で、たくさんの人々が残酷な死に方で亡くなることは枚挙にいとまがありません。伝染病、飢え、独裁者による処刑、政治的な争い、そんなことで殺されるケースはいくらでもあります。しかし、全然、何も感じませんね。
考えてみてください。10歳や8歳ぐらいの子供たちが、ボロボロに壊れた机のところで、座る椅子もなく、それでも何とか勉強しようとしているのです。そこにも、ロケット弾が飛んできて、壁が壊されます。すると子供たちは中に隠れて命を守らなくてはいけない。あるいは、壁が壊れて瓦礫になったら、地下に潜って勉強しなくてはいけない。そうやって隠れても、もしかすると空から爆弾が落ちてくる可能性はあります。今のパレスチナはそんな状況です。同じ地球上で、同じ人間がやっていることです。
でも、自分が近くにいない限りは気にもしないでしょう。 

それではだめなのです。我々は人が死ぬことを観察しなくてはいけません。残された人々がどれほど苦しんでいるのか、どれぐらい損をしているのかと。偉い人が死んでも、そうでない人が死んでも、じっと観察してほしいのです。 

たとえば昭和天皇はずいぶん長い間在位されていたのに、今、「昭和天皇の御陵はどこでしたかね」と聞いても、「ええと、どこでしたっけ?」と、ちょっと無理して思い出さなくてはいけない感じでしょう。八王子のほうにありますけどね。 
やはり、どんなに偉い人でも何年かは憶えていても、じきに忘れ去られてしまいます。いつでもそういうふうに、死について観察してみることです。 

一つシミュレーションしてみましょう。ものすごく重い状態で入院している人がいます。いろいろな機械や点滴などを身体の周り、椅子の周りにつけたままで移動せざるを得ないのです。そのような状態の人を見ると、「ああ、かわいそうだ」と思ったりします。実際、かわいそうです。もう自由はないのです。尿も、その他の身体から出すものも全部、チューブを繋いで出さなくてはいけなくなっています。ときどき、痰がからまっても、チューブで吸い出さなくてはいけなくなっています。 

そのような状態の人を見たとき、多くの人はどう思うでしょうか。「人間は、ここまで惨めになってしまうものか」「なんという苦しみだろうか」、あるいは「それでもこの方は生きていきたいと思っているでしょう」とか「この方が生きていたって何になるのでしょう」ということかもしれません。 
ポイントはその方ではなく、「その方を見てあれこれ考えている自分」なのです。いろいろ考えている自分も、死から自由だ、解放されているのだ、ということはありません。その方を前にあれこれ思ったとき、「では、自分はどうなんだろう?」と考えられるはずです。
そこで、「私の番もくるのだ」と自分の死を観察してほしいのです。 

仏教では、いつでも、人が死ぬことを観察して、こう思うのです。 

ヤター イダン タター エータン  ヤター エータン タター イダン 

Yathā idaṃ tathā etaṃ, yathā etaṃ tathā idaṃ;  

《かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。 

この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう》

「勝利の経」より

元気な時こそ「死の観察」を 

「死の観察」の機会を、自分が倒れるまで待っていてはいけません。医者から末期を宣告されるまで待つのは情けないことです。元気で、まだぴんぴんしているときに、死の観察、死の瞑想をするべきなのです。 

子供には、「死」の瞑想はたいへんやりやすいです。実際、私が接する小さい子供たちは、死を意識しているのですよ。まだ言葉を憶えたばっかりで、そんなに話せないのに。
しかし、成長する過程で親たちが「死なんて考えるな」「死は嫌なものだ」と言ったりして、そのうち洗脳されてしまいます。10歳になり、14歳になってくると、完璧に洗脳され終わって「俺は絶対、死にませんよ」という態度をとるようになるのです。 

子供がわがままで、いい加減で、「自分は死なない」「明日はどうなってもいいや」と気にしないで生活すると、親は困り果ててしまいます。よく「うちの子は本当に困りものです。お坊さん、何とかしてくれませんか?」と相談されますが、子供は親に洗脳された結果、そうなっているのです。
「あのねお母さん、それはあなたが自分で蒔いた種でしょう。自分で刈り取ってください」と言うしかないのです。それでも、その子の苦しみを見て本当に心配になったら、「助けなくては」という気持ちで厳しく諭したりします。それでも他人ですから、子供に対して、親ほどのパワーを及ぼすことはできません。 

とにかく「死の観察」は、本当は元気なうちにやるものなのです。親に洗脳されていない子供のうちなら、本当はやりやすいはずです。 

病気で倒れたときは、心配で落ち込んでいます。精神的に弱くなってしまいます。ずっと「死にたくない」と思っていたのに、倒れてしまったわけですから。病気というのはそうとうに苦しいのです。ふだんニコニコと笑っていた人でも、病気にかかったら笑うどころではありません。気持ち悪くて、苦しくて、嫌で、仕方ないです。そんな余裕のないときに「あなた、死ぬことを観察してください」などと言ったら、なんの慰めにもならない残酷なことです。ですから、早いうちに手を打ってほしいのです。 

倒れる前に、まだ元気なうちに死を観察して、マインドコントロールから、洗脳から解放されていただきたいと思います。 

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「死」は幸福のキーワード
~「死隨念」のススメ~  
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2010年11月21日