何が平和を壊すのか?
争いの世界を乗り越えるブッダの智慧
アルボムッレ・スマナサーラ長老
序 章
不安な現代社会に揺るぎない真理を
これから「真理と幸福」をテーマにお話をしたいと思います。今の世の中を見ると、あらゆる苦しみ、戦い、諍いが絶えず起こり続け、人間社会には一向に平安、幸福は訪れません。この世のすべての人類に聞いても、九九パーセント以上の人々が、平和で豊かに安らぎを味わいながら死ぬまで生きていたい、という希望を持っているはずです。なのに、有史以来今まで人類の手に入れられないものは、その平和・幸福なのです。なぜ人間はお互いに戦い、憎みあって殺しあって、不幸しか作らない生き方しているのでしょうか? なぜ人々は幸せを願いながらも、人生を苦しみの内に終わらせてしまうのでしょうか? その問題を説く最も重要な鍵として、私は真理という言葉に焦点を当てたいのです。「真理」を知らない限り、人々に幸せ、平安が訪れることはないからです。
日本では和という考え方をとても大事にしています。和という言葉自体が国の異名にまでなっているほどです。しかし、そう簡単に「和」の実現ができないことは、皆さまが一番よく知っていますね。「和」を実現するには真理を知る必要があるのです。ですから、「日本は和の国だ」と安心するよりは、どのようにすれば「和」の実現ができるのかと、これから説明する「ブッダが語る真理」に沿って考えてみるほうが役に立つと思います。
現在では、初期経典の現代日本語訳もそれなりに出版されており、専門家でなくてもごく普通に仏教を知りたいという人が、興味や疑問を持って経典を読むことが可能になってきました。でもしかし、今の世の中で生活している私たちには、二千五百年前にお釈迦さまが説かれた、教えの意味を読み取れないおそれがあります。また、一読して分ったつもりになっても、理解が足りなかったり、誤解していたりするおそれもある。そのうえ、何冊か仏教書を読むうちに、幾つかの問題も出てきます。例えば、「お釈迦さまは、当たり前のことを言っているようだ」「なぜ同じことを繰り返し語っているのか、つまらないではないか」「なぜ私たちの疑問に明快に答えてくれないのか」等々の疑問が生じます。お釈迦さまの法話は、私たちの常識でわかる範囲で理解することもできますが、それだけで完全に分かったとは言い難いのです。
私がこれからお話しすることは、釈尊の直接の教えとして定評があり、信頼の篤いパーリ経典に基づいています。しかし経典そのものの日本訳ではありません。経典の裏話というと語弊がありますが、いわば出家比丘にしか語りえない経典の中身です。それは仏教学の本をいくら紐解いても出てこないものです。なぜならば、私が皆さまにお話するようなことは、学問的な立場から語れることではないからです。学者の方々は具体的にある資料を見て、それについて何か語るしか方法がない。裏話が出たらそれは学問的でなくなってしまうわけです。しかし、実際にその教えを実践している私たちにとって、仏教は日々実践している生きた教えですから、お釈迦さまの生の声を感じ取れるのです。そういうところを紹介しようと思っています。
「ありのまま」を知ることが平安への道
ブッダの教えはすべての人々のために説かれたものです。ゆえに出家者たちは、心の幸せをテーマに一生懸命語り続けます。「自分も幸せになりたいなら、真理を知りなさい。真理を知れば平安が訪れる」と人々にブッダの教えを説くのです。真理と平安は、初期仏教からみれば厳密に関係あるもので、決して分離することはできません。
真理は「事実」という意味です。難しい定義はいりませんね。平安という言葉は平和、幸せ、喜び、安らぎなどの言葉と置き換えても良いのです。事実と幸せ、事実と平和はどのような関係があるのでしょうか? 実は、仏教ではここが最も大切なポイントになります。
人間は考えずに行動することはできません。私たちのすべての行動は思考、考え方が支配しているのです。思考は判断に基づきます。現実の世界を観察してみると、結局私たちの思考判断は苦しみの増える方向へ行っています。生きることが楽になる方向へは全く行っていないのです。そこで判断が正しくないとするならば、やっぱり事実を知らないということになってしまうのです。
「ありのままに知る、ありのままに知った人はありのままに生きている」という仏教のキーワードがあります。ありのままとは真理を知ること。つまり、真理を発見して、心の汚れを落として、覚醒して生きていることです。自分の好き勝手に生きることではないのです。普通の日本語になると、「まぁ、気楽に今までどおりでいいのではないか」ということになりかねませんが、それは結局、自分勝手な判断通りでよいという意味でから、決して「ありのままに」ということではありません。
見解は真理を覆う争いの種
その昔、地球が平らで天国は上方にあると人々が考え、それが真理だと信じられた時代がありました。ある科学者が初めて「地球は丸い」という事実を発表したとき、異なる意見がぶつかって、不幸な事態も起こりました。でもさらに調べてみると、やっぱり地球は丸かった。頑なに地球は平らだと思った人々も、仕方なくそれを認めることになりました。ですから証拠に基づいたありのままの状態が分かったなら(この場合は地球が丸いという事実)、誰にも何の文句も言うことはできません。そちらには何の戦いも何の異論も成り立ちません。個人の気持ちも主観も何の関係もありません。すべてのものについて「ありのままの状態(事実)」を知ることができれば、完全なる平和が訪れることでしょう。完全なる事実を知らなくても、私たちが知っている範囲の事実のみを語ることに留まって、余計なことを語らぬように戒めるならば、世界は平和になるのです。
どんな対策を講じても解決しない問題は、見解の相違から起きます。真理でないと、自分の主観というものが必ず入り込んで、色々違う意見が多数に出てくる。その場合は問題が複雑化して、後味の悪い結果で終わってしまうのです。なぜかと言うと、相手は自分の考えていることは必ず正しいと思っているのです。でも他の人々には違う意見があります。お互いに自分の意見は正しいと思っているから、ぶつかってしまうのですね。世の中にあるのは意見のぶつかり合い、いわゆる見解のぶつかり合いなのです。
私たちに身近な兄弟・親子・夫婦ゲンカから世界の戦争まで、争いはどこから生まれるかというと、この見解の相違から生まれるのです。見解をどれほど出しても、必ず反論が成り立ちます。どんなことでも、他の人が強引に意見を通すと、自分の権利が潰されたような感じがして悔しい思いをする。それで相手の意見に反論して争いになる。それが人間の不幸の原因です。これは些細なものではなくて世界戦争にまで広がり得る、とても危険な働きなのです。
社会にはいろいろな意見や異論があって良いではないかと、思っている人もいます。でも、そう語る当人も、実際には違う意見を放って置けないのです。結局は口先だけです。自分の子供でさえ、違う意見を持っていると腹が立ってくる。それを何とか潰そうとしたところで、親子の間の平和がなくなって戦いが生まれます。
でも些細なことで喧嘩する親子に、地球は丸いか三角かと訊けば、その点では喧嘩しません。二人揃って丸いというでしょう。それが真理です。つまり真理を知れば、平安と平和が訪れる。真理を知れば、ありとあらゆる戦い、諍いが消えてしまうのです。
もし平和になりたければ、幸福になりたければ、苦しみから脱出したければ、悩んだり苦しんだり落ち込んだりしたくなければ、たった一つ、真理を知りなさいとブッダは説かれました。真理には異論も争論もありません。真理を知ってはじめて、人間が和合を知る。競争が消える。心に平安が生まれてくるのです。
私見は危険
ブッダが説かれるには、幸福な苦しみのない世界が全然作れない原因は、私たちの思考にあるのです。私たちの生きている状態、自分というものを注意深く調べてみて下さい。すると、私たちは「これが事実、あれも事実」と、あらゆるものを知っているかのような気持ちで生きていることを発見できると思います。仏教の客観的な観察方法によると、実は知っているのではなく「信じて生きている」と言ったほうが正しいのです。
私たちが信じて生きている知識の世界、判断の世界は巨大なものです。この知識と判断の世界を無視することは、私たちには今の精神状態では決してできません。なぜならば、人は喋る時でも、歩く時でも座る時でも、他人と接する時でも、自分の主観的な思考判断で行なうしか方法がないのです。「それなら、一人一人の知識の世界は、そのままでいいのではないか」と皆さまは思うでしょう。気持ちはわかりますが、それは真理の世界ではありません。主観というものは平和と幸福を壊す、とても拙くて危険なものです。自分自身が原子爆弾で、いつでも放射能漏れを起こしている。私たちは不幸になるウィルスを自分で持っている。だから自分も不幸であるし、周りも不幸にしてしまうのです。感情や、偉そうな推測を置いておき、精密な客観的な思考で事実のみを知ることができるでしょうか。お釈迦さまの説かれた実践を行わない限りは無理だと思います。
ブッダは「すべての問題はあなた自身の心にある、あなたの思考、あなたの判断が問題なのですよ」と仰います。そういうわけで、自分そのものをきめ細かく分析し、また新たに評価しなおすということをしなくてはいけない。これが真理を発見する方法です。
ブッダが完全なる安らぎを発見する
真理の発見は何よりも大事なことと言えます。その発見によって、人間の抱えている問題を解決するからです。どんな宗教も哲学も科学も、人類の問題を研究しています。役に立たないような研究であっても、人間のためになるということは想定しているのです。経済学であれ政治学であれ、その他の学問であれ、扱っているのは人間の問題なのです。
お釈迦さまも、人間の問題を徹底的に探求なさいました。そこでついに真理、事実を発見したのです。今まで心を悩ませた存在に対するあらゆる疑問が消えて、究極の平安、安穏を獲得したのです。ふたたび無知の世界に陥ることがないとわかったのです。なすべきことはすべて完了したのです。釈尊はご自分の勝利をこのように表現しています。「私は存在という問題の答えを、随分長い間、苦労して探し求めていた。やっと見つかりました、心は安らぎを体験しました。苦しみの原因はなくなってしまった。もう二度と苦しみに陥ることはあり得ない」。お釈迦さまは人類で初めて絶対幸福宣言をされました。真理を発見して、心に決して変わらない、揺らぎない平安が訪れたことを自分でも大変喜ばれたのです。
Anekajātisaṃsāraṃ , sandhāvissaṃ anibbisaṃ;
Dhammapada 153-154
Gahakāraṃ gavesanto, dukkhā jāti punappunaṃ.
Gahakāraka diṭṭhosi, puna gehaṃ na kāhasi;
Sabbā te phāsukā bhaggā, gahakūṭaṃ visaṅkhataṃ;
Visaṅkhāragataṃ cittaṃ, taṇhānaṃ khayamajjhagā.
わたしは、無数に生まれ変わりそれを繰り返し、無益に輪廻を転生してきました。
法句経 一五三、一五四偈
――家屋(この五蘊という身体)の作り手を捜し求めて――。
繰り返し繰り返し生まれ変わるのは、苦しみからである。
家屋の作り手よ! 汝を見つけた。汝はもはや家屋を作ることはない。
汝の梁(煩悩)はすべて折れ、家の屋根(無明)は壊してしまった。
現象を作ることから離れた心が、渇愛を滅ぼし尽くした。
それから暫くして、お釈迦さまは弟子たちに向かって「苦しんでいる人類の幸福のために、すべての生命の安らぎのためにこの真理を語れ」と説きました。歴史的に世界で初めて伝道活動を開始したのです。
Caratha, bhikkhave, cārikaṃ bahujanahitāya bahujanasukhāya lokānukampāya atthāya hitāya sukhāya devamanussānaṃ.
Vinayapiṭaka, Mahāvagga1-8
Mā ekena dve agamittha.
Desetha, bhikkhave, dhammaṃ ādikalyāṇaṃ majjhekalyāṇaṃ pariyosānakalyāṇaṃ sātthaṃ sabyañjanaṃ kevalaparipuṇṇaṃ parisuddhaṃ brahmacariyaṃ pakāsetha.
比丘たちよ、あらゆる生命の幸福のために、安らぎのために、生命を憐れんで、神々と人類に幸福と安らぎを齎(もたら)すために、旅に出なさい。
律蔵大品一ノ八
一つの道を二人で歩まず、独りで行きなさい。
初めも優れ、途中も優れ、終わりも優れ、言葉もその意味も全うしている完全で清らかな実践方法を説き伝えなさい。
この施本のデータ
- 何が平和を壊すのか?
- 争いの世界を乗り越えるブッダの智慧
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2003年5月