わたしたち不満族
満たされないのはなぜ?
アルボムッレ・スマナサーラ長老
5 不満だから
不満だから、
●生きることに挑戦する。
●経済、科学発展、学問、文化などがある。
●芸術、遊び、楽しむ文化がある。
●欲、怒り、嫉妬、憎しみ、落ち込みなどがある。
●競争、戦争、奪い合いがある。
●平和、調和、虐待、いじめ、殺し合いなど、何でもある。
世の中には善いものも悪いものもいろいろなものがありますが、これらはすべて「不満」という衝動から生まれています。
ですから、いじめをなくそう、虐待をやめよう、競争をなくそうと言っても、実際になくすことはできません。
世界ではよく「平和な社会をつくりましょう。戦争をやめましょう」と言っています。でも平和も戦争も、実は不満から生まれているのです。
不満があると戦争になり、戦争はよくないという不満が出てくると、平和を求めるのです。勝てそうだと思ったら戦争し、負けそうだと思ったら平和を謳うのです。
これは、社会の事実です。実際、これまでに社会から虐待やいじめがなくなったことがあるでしょうか。いじめられるのは誰でもイヤでしょう。でもいじめはずっとあったのです。今もありますし、これからもあるでしょう。
ケンカをしてはいけないと、みんなが知っています。ではなぜなくならないのでしょうか。不満があるからです。不満によって戦ったほうがよければ戦いますし、仲直りしたほうがよければ仲直りします。
わたしたちは、その都度その都度、ケンカしたり仲直りをしたりして生きているのです。
6 消えないのは不満
●努力してがんばると不満が増す。
●努力しないで怠けると不満が増す。
●成功すると不満が増す。
●失敗すると不満が増す。
●不満は限りなく生まれる。
不満は限りなく生まれます。元気にがんばって行動しても不満が生じますし、がんばらないで怠けていても不満が生じます。
成功しても「さらに成功したい」という不満が生じますし、失敗しても不満が生じます。
いくらでも不満は生まれるのです。「不満をなくして満足したい」と不満に挑戦することが、生きることなのです。
では、はたして不満をなくすことはできるのでしょうか? 不満をなくそうとがんばるとどうなるのでしょうか?
さらに不満が生まれるのです。結局は、何をやっても不満が生まれるのです。
これは数学や科学のような物質論で説明できるものではありません。これは、こころの問題であり、存在の問題ですから、存在の問題として考えてみてください。
生きれば生きるほど、何が大きくなるのでしょうか?不満が大きくなるのです。そして不満が大きくなればなるほど、わたしたちはますます生きることに挑戦するのです。
不満だから、食べていますし、寝ていますし、喋っていますし、あらゆる行為をしています。何をやっても不満が生まれますから、また挑戦するのです。
この挑戦に終わりはありません。したがって「生きることが終わる」ということは成り立ちません。死後もこの挑戦は続いてゆくのです。これが仏教でいう「輪廻転生」です。
善いことをして生きていても
悪いことをして生きていても
善と悪の両方をして生きていても
収入を得て生きていても
生きることがイヤで何もせずに生きていても
不満があるから生き続ける
善いことをやる人は、不満があるから善いことをやっていますし、悪いことをやる人は、不満があるから悪いことをやっています。仕事をして食べて寝るというだけの人も、不満があるからそういう生活をしていますし、何もしない人も、不満があるから何もしないのです。
不満があると、わたしたちは「満足」とか「幸福」というニンジンを目指して走ります。これが生きるということなのです。
人を助ける善行為も、人を殴る悪行為も、どちらも不満から生じています。すべての行為は不満から生まれ、その不満が新たな不満を生み出すのです。
ですから「生きる」ということは限りなく続き、輪廻転生は避けられません。こうやって苦しみは無限に続くのです。
そこで仏教は、輪廻のシステムから脱出するために「捨てる」ということを教えています。「善も悪もどちらも不満から生まれるのだから、執着を捨てなさい」と。
仏教の教えの一般的なところでは「悪いことをしてはいけません。いっぱい善いことをしましょう。幸福で生きていましょう」と教えていますが、究極的なところにいくと「一切の執着を捨てる」ということを教えているのです。
これについては最後の章の「不満を克服する道」で、もう一度お話することにいたしましょう。
この施本のデータ
- わたしたち不満族
- 満たされないのはなぜ?
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2006年9月23日