施本文庫

わたしたち不満族

満たされないのはなぜ? 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

2 こころのダイナミズム

 ◇誤った認識

こころは絶えずものごとを認識しています。認識していると言っても、誤って認識しているのです。

たとえば、ある映像があり、それが順々に10のステージまで変わっていくとしましょう。1から2に変わり、2から3に変わり、3から4に変わり、……10まで変わっていきます。

その映像を、わたしは見ています。まず1のステージが現れると、「わたしは1を見た」と認識します。認識したあと画面を見ると、そこには4のステージが現れています。「4だ、わかったぞ」と思った瞬間、今度はその画面に7のステージが現れています。「7だ」と思った瞬間、次に見ると10のステージが現れているのです。

そこでわたしが見たものは何でしょうか。1と4と7と10だけです。1から10まで全部のステージを見たわけではありません。

では、なぜ全部のステージを見ることができないのでしょうか。それは、認識するのに時間がかかるからです。
こころが1を認識している間に、画面は1から2に変わり、2から3に変わり、3から4に変わっています。それで次に認識しようとすると、画面が4になっているのです。2と3は知りません。そして4を認識している間、画面は5、6、7へと変わっているのです。

そこで「この映像について説明してください」と言うと、当然のこと、1と4と7と10のステージしか説明しないのです。
にもかかわらず「わたしは全部見た、全部知っている」と思い込んでいます。本当は全体の一部しか見ていないのに――。

このように、わたしたちはものごとを正しく認識していないのです。

 ◇こころは決して止まらない

一部しか認識できないということは、その間、こころが止まっているということでしょうか?

止まっていません。ずっと働いています。たとえ1と4と7と10だけしか認識できなくても、こころは働き続けているのです。
でも、対象をすべて認識することはできません。なぜでしょうか?

それは、外部の情報が入ったとき、わたしたちは情報をのんびり理解したり、それについて妄想したりするからです。
外部の情報はさっさと変わっていきますが、こちらはのんびり妄想しているため、対象をすべて認識することができないのです。隙間が生じるのです。
そして、わたしたちはその隙間を強引につなぎ合わせて、さらに自分勝手な妄想や幻覚をつくりあげるのです。

たとえば、今みなさんは「本を読んでいる」と思っているでしょう。でも本当に読んでいるでしょうか。
読んでいないのです。本を読みながら、ときどき別のことを思い出したり考えたりして、こころはしょっちゅう本から離れているのです。そして、読んだところだけを強引につなぎ合わせて「わたしは本を一冊読んだ」と言うのです。

同様に、わたしたちは絶えず見たり聞いたりしていますが、実はちゃんと見ていないし聞いていないため、はっきりものごとを知らないのです。

では、外部の情報を遮断したら、こころは止まるのでしょうか?
止まりません。今度は妄想を始めるのです。外の情報がなくても、内にある感情が燃料となって、妄想がフル回転するのです。そうすると、新しい情報が外から入ってきませんから、妄想する人はますます世の中が見えなくなり、どんどん無知になってゆくのです。

お釈迦さまは「ヴィパッサナー」という実践方法を教えられました。これは、自分自身やものごとに「気づく」ための実践方法です。
ヴィパッサナーで何に挑戦するかといいますと、妄想を止めることに挑戦するのです。わたしたちは、入ってきた情報について妄想ばかりしているものですから、ものごとをあるがままに知りません。

ヴィパッサナーを実践することによって、認識力が高まり、ありのままに知ることができるようになるのです。妄想はだんだん減ってゆき、ついには「物はダイナミズムであり、こころもダイナミズムである」という真理を発見することができるでしょう。
このときの知識は、一般の知識とは比べものになりません。遥かに高いレベルの智慧なのです。
真理を発見するのに道具は必要ありません。必要なのは、こころの集中力と妄想をしないことなのです。

 ◇こころ(認識)は瞬時に変わる

世界は瞬間瞬間変化しています。
同時に、こころも(認識も)瞬間瞬間変化しています。見たり聞いたりするたびにこころは変わりますし、またこころが変わらないと、見たり聞いたりすることはできません。

たとえば草むらに小さな花が咲いているとしましょう。その小さな花を見て「花だ」と認識します。その花のそばから、蛇が出てきました。蛇を見た瞬間「蛇だ!」と認識します。
そこで、花を見たときの気持ちと蛇を見たときの気持ちは同じでしょうか? 
ずいぶん違うと思います。

このように、こころは瞬時に変化しますし、変化しなければ「花」とか「蛇」などと認識することができないのです。こころが全く変わらず、生まれたときからずっと同じだったら、何も知ることはできないでしょう。
わたしたちは絶えずいろんなものを見たり聞いたり感じたりしていますし、そのたびに、こころは変化しているのです。

 ◇不満だから認識する

なぜ物質は変わるかといいますと「不安定」だからです。
なぜこころは変わるかといいますと「不満」だからです。不満だから、ものごとを認識するのです。

しかし、認識しても、認識した対象はその瞬間から変わってしまいますから、わたしたちのこころにはまた不満が生まれます。その不満をなんとかしたいと、さらに別のものを認識しますが、その対象もすぐに変化するため、また不満が生まれます。それでまた別のものを認識するのです。これが絶え間なく続いてゆくのです。

「認識」といいましても、これは「誤認」のことです。ものごとを正しく認識するなら、すべての問題は解決しますが、わたしたちは「誤った認識」をしているために悩みや苦しみが生じるのです。

 ◇不満はこころの性質

不満、怒り、欲、憎しみ、落ち込み、後悔などはこころの性質であり、物質ではありません。
一方、物質には不満も怒りも欲もありません。ただ不安定で、変化しているだけなのです。

そこでみなさんに覚えていただきたいことは、「物質もこころもダイナミズムであり、そのどちらも安定していない」ということです。
安定していないもの同士が関わり合うのですから、不満が生じるのは当たり前でしょう。こころには不満しか生じないのです。

 ◇こころが支配者

こころというものは物質(身体)に依存して働いていますが、それだけでなく、物質を変えたり管理したりもします。

たとえば何か悩み事があると、頭痛がしたり食欲がなくなったりするでしょう。また、あまりにもストレスが溜まると、早く白髪になったり老けたりします。
逆に、八十歳や九十歳の方でも、ストレスがなく穏やかに生きている人は、健康的で若々しく見えます。

このように、こころが身体を管理して支配しているのです。

 ◇こころは強烈なポテンシャルを持っている

こころは巨大なポテンシャルを持っています。ポテンシャルのことを、パーリ語では「saṅkhāra(サンカーラ)」といい、日本語では「(ぎょう)」や「(ごう)」といいます。

こころは、外部の情報があってもなくても、身体があってもなくても、ポテンシャルで回転を続けます。見ていないときも聞いていないときも、こころは勝手に回転するのです。

わかりやすい例が、夢を見ることです。眠っているとき、外部の情報は入ってきませんが、夢を見るでしょう。夢を見るのはこころが回転しているからです。こころはノンストップなのです。

 ◇ポテンシャルは増え続ける

外の情報がなくても、こころは妄想して、働き続けます。
妄想するのに必要なエネルギーは、感情です。感情は次から次へとエネルギーを生み出します。

たとえば、腹が立ったとき、それについて妄想すると、さらに腹が立つでしょう。今の怒りが次の怒りを生み、その怒りがまた次の怒りを生むのです。妄想すればするほど、怒りはどんどん増えてゆきます。感情は自己生産しますから、業はいくらでも増えるのです。
反対に、業はなかなか減りません。ある業があり、その報いを受ければ業はほんのわずか減りますが、それと同時に新しい業をたくさん作っているのです。
これは、借金を返済すると同時に、多額の借金をするようなものです。それだったら、どんどん借金が増えるだけでしょう。

 ◇こころの回転によって輪廻転生する

ポテンシャルがある限り、こころの働きが止まることはありません。これが輪廻転生の証拠です。

輪廻転生ということがわからなくても、「こころはずっと回転し、一瞬たりとも止まらない」あるいは「妄想は止まらない」ということなら、ご自身の心身を観察すれば、おわかりになるでしょう。

世の中には「身体が壊れたらすべて終わり」と言っている人もいますが、それは事実ではなく、単なる観念であり妄想にすぎません。身体が壊れても、こころの巨大なエネルギーが停止することはないのです。

それからわたしたちはだれでも、死後、天国に行くことを希望しているでしょう。でも、そう簡単には行けません。なぜならわたしたちの生き方は、希望どおりにいくのではなく、不満どおりにいくからです。
勉強しないで遊んでばかりいる子供も「勉強したほうがいい」ということはわかっていますし、「頭が良くなりたい」という希望もあるでしょう。しかし、いくら希望しても、勉強しなければ頭は良くならないのです。希望だけではどうにもなりません。

このように、誰でも「天国に行きたい」と願っているでしょうが、次の生を決めるのは、希望や願望ではなく、死ぬ瞬間の自分のこころの質なのです。

 ◇「こころが在る」「わたしがいる」というのは錯覚

わたしたちは「こころが在る」「わたしがいる」と考えていますが、そのどちらも事実ではなく、錯覚です。

なぜ「わたしがいる」と錯覚するのでしょうか?

それは瞬間瞬間「わたし」という感覚が現れては消え、現れては消えているにもかかわらず、その事実を認識することができないからです。
「わたしがいる」という錯覚が、絶えずこころに流れている不満を、苦しみに変えているのです。

どういうことかといいますと、たとえば誰かがわたしに何かを言ったとしましょう。そのとき「わたしの悪口を言った」と考えたなら、気分が悪くなり苦しくなります。
なぜ苦しくなったのでしょうか?
それは「わたしがいる」という錯覚に基いて「わたしを貶した」と妄想したからです。
こころには絶えず不満が流れていますが、「わたしがいる」と錯覚することによって、不満が苦しみになるのです。

「わたしがいる」というのは蜃気楼のようなものです。砂漠の中で蜃気楼を見て「あれは湖だ」と錯覚すると、のどが渇いた旅行者はその湖に向かって歩くでしょう。しかし、結局はたどり着くことができず、疲れはてるだけです。
反対に「蜃気楼だ」とわかっている人は、そちらに向かって歩いて行くこともないでしょうから、疲れはてることもないのです。

生きることは不満です。
「わたしというものは現象である」ということを理解している人には苦しみがありませんが、「わたしがいる」と錯覚している人には苦しみが生じます。さらにその錯覚によって、こころが汚れ、悪まで犯すのです。

このようにして、わたしたちは「不満と苦の監獄」の中で生きているのです。

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わたしたち不満族
満たされないのはなぜ? 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2006年9月23日