施本文庫

怒りの無条件降伏

中部経典「ノコギリのたとえ」を読む 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

不善はすぐにはびこる 

駿馬のように鋭敏に 

そこで、世尊は、比丘たちに話された。

比丘たちよ、かつては、比丘たちが私の心を実に喜ばせたものでした。比丘たちよ、私は、今、比丘たちにこのように話します。『比丘たちよ、私は、まさに、一回の食事で過ごしています。比丘たちよ、私は、まさに、一回の食事で過ごすと、病いが少ないことを、災いが少ないことを、起居が軽快であることを、体力があることを、居住が快適であることを知ります。比丘たちよ、ここに、あなたたちもまた、一回の食事で過ごしなさい。比丘たちよ、あなたたちもまた、まさに、一回の食事で過ごして、病いが少ないことを、災いが少ないことを、起居が軽快であることを、体力があることを、居住が快適であることを知りなさい』と。

比丘たちよ、(しかし)私には、かつての比丘たちに対して、教え諭すべき事はなかったのです。比丘たちよ、私には、その比丘たちに対して、気づきを起こすだけの事ですんだのです。 

お釈迦さまは、何だかあきらめていらっしゃるようですね。かつての比丘たちは私の心を喜ばせていた。それが今では、口が酸っぱくなるまで言わなくてはならない、と。 

サンガも大きくなってくると、智慧の鋭い人だけの集まりというわけにはいきません。いろいろなトラブルも起こります。お釈迦さまの話を以前のように真剣に聞き入れる人々も少なくなりました。サンガが拡大すると、お釈迦さまの苦労もそれにつれて一緒に増大したようです。食事の戒めの話は、お釈迦さまの苦労を示す一つの例です。昔の弟子たちは釈尊の生き方を模範にして自分の生き方を制御していたのですが、この経典が語られた時期になると、「やめなさい」と命令しない限り、戒律を設定しない限り、正しい生き方に気づいてくれなくなっていたのです。 

初期の頃、お釈迦さまが弟子たちを戒律で戒めることはありませんでした。皆、お釈迦さまの生き方を模範にして、よく理解して、正しく生きていたのです。ところが今は、命令形でもって、命令しないとやってくれない。戒律も規則も、いろいろな項目ごとに箇条書きが必要になってしまった。
お釈迦さまは「これをしなさい」とか「これをするなかれ」などと、あまり言いたくなかったのです。理性を重視して説法なさったお釈迦さまにしてみれば、真理さえ理解しておけば善悪の判断ぐらい各自でできるのではないか、と思われていたかもしれません。あるいは、修行する目的で集まっているグループの中で道徳違反などはもってのほかだ、と思われていたかもしれません。しかしいろいろな問題が出てくると、禁止命令を出さないといけない。それは、好んでなさっていたわけではないのです。そこで、昔の弟子たちの優等生を思い出して、「昔は気づかせてあげるだけでした」とおっしゃるのですね。 

比丘たちよ、また、たとえば、平坦地にある広い十字路に、駿馬(ājaññaratho)がつけられている車が用意され、鞭が置かれ、備え付けられている、とします。
そこで、熟練の調教師である馬の御者がそれに乗って、左手に手綱を持ち、右手に鞭を持って、好きな所に、好きな様に、行かせもし、戻らせたりもするのです。

比丘たちよ、ちょうどこのように、まさに、私には、かつての比丘たちに対して、教え諭すべき事はありませんでした。比丘たちよ、私には、かつての比丘たちに対しては、気づきを起こす(satuppāda)だけの事ですんだのです。 

比丘たちよ、ですから、あなたたちは、不善(akusala)を捨てなさい。諸々の善法(kusalesu dhammesu)において励みなさい。
まさしくこのように、あなたたちも、この法と律について、大きく成長しなさい。 

これはわかりやすいたとえです。十字路に馬車があるとします。その馬車についている馬は、《ājañña》という、すばらしく血統の良い種類の馬なのです。頭が良くて、乗る人の心をきちんと読む。頭の悪い馬はいちいち命令しないとやってくれないが、育ちの良い馬は、人が車に坐っただけで、その人がどこら辺に行きたがっているか感知して、すぐにそこら辺に運んでくれるのです。
このような駿馬をつけている馬車であれば、上手な調教師が来て手綱をもつだけで、「右だよ」と信号を出せば右に曲がる。「左だよ」と少し引っ張るとすぐにそちらに行く。 

《気づきを起こす》は、《satuppāda》の訳です。《satuppāda》は、sati(気づき)+ uppāda(生起)。「かつての弟子たちは、育ちのよい馬のように、ちょっと気づくようにしてあげるだけでよかったのだが」とおっしゃるのです。 

「ですからあなたたちも《不善 akusala》を捨てなさい。どんなかすかな悪いことも、すべて捨てなさい。《善 kusala》の方向に努力しなさい。そのようにするならば、ブッダの教えにおいて成長するだろう、繁栄するだろう」と。 

寄生シダにご用心

比丘たちよ、また、たとえば、村か町の近くに大きなサーラ樹の林があり、そして、それをシダの茂みが覆っているとします。
ちょうど誰か、(サーラ樹の)成長を想う(attha-kāma)、利益を想う(hita-kāma)、無事を想う(yogakkhema-kāma)人が現れるとします。彼は、曲がり、養分を無駄に吸い取る枝を刈り払い、外に運び出すでしょう。林内をきれいに整備するでしょう。また、まっすぐで素性のよいサーラ樹の枝を良く世話するでしょう。

比丘たちよ、まさしくこのように、このサーラ樹の林は、後に、大きく成長するでしょう。比丘たちよ、ちょうどこのように、まさに、あなたたちは、不善(akusala)を捨てなさい。熱心に、諸々の善(kusala)の法をなしなさい。
まさしくこのように、あなたたちも、この法と律について、大きく成長しなさい。

次にサーラ樹の林のたとえを述べられます。インドには、サーラの林やマンゴーの林などがよくつくられていました。サーラというのは結構大きくてかなりきれいな樹木です。林として植えるととても雰囲気がいいので、よく植林されていたようです。
《成長を想う attha-kāma》のatthaは「意義」、kāmaは「期待する」という意味で、「自分と他人のことを想う、自分と他人のために何かしたい」という気持ちを表す表現です。
《利益を想う hita-kāma》のhitaは「好ましい」、kāmaは「期待する」で、「自分と他人のためになることを想う」という意味になります。
《無事を想う yogakkhema-kāma》。yogaは「努力すること」で、宗教の場合は「修行を大いにする」、仕事などでは「がんばる」という意味です。Khemaは「トラブルがなくスムーズに進む」ということだから、「無事」という意味になります。

このような性格をもつ善人がサーラの林に入って、サーラ樹にシダが寄生しているというトラブルを見つける。サーラは大木ですが、弱いのです。寄生植物は楽に栄養をとってドンドン大きくなります。「私は寄生しているのだから適当に遠慮して成長しよう」ということはあり得ないことです。みるみるうちに成長します。寄生植物が重くなりすぎると枝が折れます。サーラは弱いので、枝が折れただけでもその傷跡からバイ菌が入って枯れてしまうのだそうです。

そこで善人は、寄生シダを見つけたら、その枝を切って取り除き、外に運ぶのです。ただ切って捨てただけではまたそこから生えてくるかもしれないので、危険だからです。寄生植物を取りはずして林をきれいにし、丁寧に手入れをする。そうすると、サーラの林はすばらしく繁栄するのです。

「そのようにあなたたちも、《不善 akusala》を捨てなさい。心に《不善 akusala》が入ってしまうと、心が腐ってしまって、やがて自分も倒れてしまいます。たとえ小さな不善でも、『まあいいや』と無視して放っておくと、どうなるかわからない。寄生シダのように勝手に成長して自分が悪で倒される恐れがあります。そして、《善 kusala》をがんばってください」とおっしゃるのです。

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怒りの無条件降伏
中部経典「ノコギリのたとえ」を読む 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2004年6月