施本文庫

怒りの無条件降伏

中部経典「ノコギリのたとえ」を読む 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

まとめ ――仏教徒の心得――

悪条件を軽々と乗り越える

「怒り」は猛毒です。心に「怒り」が入ってしまうと、すべての行為が汚れて悪行為になってしまいます。怒っていることに気づいたら、すぐにその場で心から怒りを追い出さないと、大変危険なことになります。怒りは心の時限爆弾です。チクタクという音を聞いた瞬間に、解除しないと危険です。「怒り」は心にとって悪性の癌です。できるだけ早く切って捨てないといけません。
悟りを開くまでは、我々の心には「怒り」がしょっちゅう生まれます。「怒り」といっても、誰かに殴られて怒ってしまった、というような派手なものに限りません。気がつかないほど微妙な怒りが心の中に潜んで、四六時中人格を蝕んでいくのです。わかりやすく言えば、「笑えない精神状態」が「怒り」なのです。軽々と笑う心には「怒り」はありません。

お釈迦さまの言葉によると、「極悪人にノコギリで手足を切られても怒らないようにしなくてはならない。そういう最悪の場合でさえも機嫌を悪くして怒る人は仏弟子にふさわしくない。『私は仏教徒だ』と胸を張っても、日々怒りの制御に励まないならば仏弟子とはいえない」ということになります。
ノコギリで極悪人に手足を切断されるなどということは、滅多に起こることではありません。しかし、それくらいの悲惨なことが自分の身に起きても怒りなく平安でいられる覚悟が必要なのです。我々は日常の中で、本当に悲惨な目に遭って怒っているのではないでしょう。「無視された、いじめられた、バカにされた、侮辱された、自分の意見を聞いてくれなかった、クラクションを鳴らされた、ジャマされた、声がうるさかった、イヤミを言われた、フラれた」などで他人に対して怒っているのではないでしょうか。他を恨み、憎んでいるのではないでしょうか。それくらいのつまらないことで自分の人生を破壊へ導いていいのでしょうか。少々ひどい目に遭っただけで、ちょっと損害を受けただけで、何を忘れてもその恨みだけは忘れずに墓場まで持ち運ぶ。そういう生き方はあまりにも不幸なのです。恨みつらみだけを心の永久保存版にしてこの世を去る人々の、あの世の運命もどうなるか、推測できるでしょう。

誰からも被害を受けたことがないという人など、世の中にいません。どんな人間でも何かひどい目に遭っています。被害を受けることは当たり前なのです。被害者コンプレックスで恨み憎しみを繁殖させるばかりだと、我々は同時に加害者でもあることを簡単に忘れるのです。他人に怒る理由、他を恨み憎む理由など、存在しません。人は、いい加減な屁理屈を駆使して、他人を恨むため、他人に害を与えるために、いくらでも言い訳だけはつくるのです。
ノコギリのたとえを心に刻み込んでおくと、他から害を受けても怒らず憎まず、穏やかでいられるのです。その人の心の幸福を壊すことは誰にもできません。「加害者を許すこと、加害者を憎まないこと、加害者に対しても慈しみの気持ちを抱くこと」――これは仏教徒の特徴なのです。

「自分に害を与える人を放っておけばやりたい放題のことをやるのではないか」と言われるかもしれませんが、それはあり得ないと思います。仏教は、良い仲間、朋友と生活するべきだと言っています。自分に害を与える人々と苦労して仲良くする必要はないのです。何と言っても我々は弱い存在なのです。桁違いの人格者であれば害を与える人とも仲良くできるでしょうが、私たちには無理かもしれません。ですから仏教では、悪人たちから離れることも薦めているのです。悪人から離れても、その人々を憎まないのです。恨まないのです。自分に関係ないのだから、怒ったり憎んだりする必要さえも出てこないはずです。
他を恨む生き方は、あまりにも格好悪い。人間らしくない。加害者を許すこと、憐れむことは、格段に優れていて格好良いのです。それこそ人間らしい生き方なのです。

「そう言われても、恨み憎しみが忘れられない。許せない」というのであれば、どうすればいいのでしょうか。本当は、そういう気持ちで生きるならば、その人は人間をやめようとしているのです。「あの人に言われたこと、されたことは、一生忘れない。そう簡単に忘れるものか」と思いながら生きる人は、不幸の暗闇へと進んでいるのです。加害者も反省すれば立ち直るのに、ひどい目にあって被害者気分を忘れない人は、立ち直るどころか、さらに不幸へ進んでいく。あまりにも理不尽なことではないでしょうか。イヤなことは忘れるものです。人の過ちは許すものです。それが仏弟子たちの生き方です。そういう人々は勝利者です。
この世の中では、害を受けず、イヤなことに出会わずに生きることは不可能です。しかし、仏教の見方で生きる人は、何か被害を受けても、それが最小限の被害で終わります。一万円盗られたからといって、相手から十万円を奪って法律で裁かれるようなことはしません。人に金を盗まれる不注意な生き方を改めるのです。そうなると、少々の損が何千倍もの得になっているのです。正しい生き方を習うために、ホンのわずかな学費を払ったと思えばいいのです。

仏教徒にとっては、周りが自分のジャマばかりしているならば、その環境は良い環境です。なぜならば、こちらに修行ができるのです。性格が悪い同僚がすごく失礼なことを言ったら、怒らない修行をするのです。「こういう失礼なことを言われても、私は心を安定させておこう。怒ったら、私はバカだ。この人は私を嫌な気持ちさせるために意地悪を言ったのだから、私の機嫌が悪くなったら相手の思うつぼで、私がバカだ」と、イヤなこと、悪い状況を全部、自分が成長するための踏み台にし、梯子に使うのです。
何かジャマなことがないと、人間というものは成長しないのです。 一見ひどいと思われるようなことも、一概に「悪い」とは言えないのです。トラブルがあることは当たり前だと考えて、逆にそれを人生の梯子のステップにするのです。被害に遭うことは、不幸ではありません。智慧を使えば、悪条件こそ自分の成功の飛び石にすることができるのです。
悪条件を飛び石にすると、悩み苦しみの泥にまみれずに歩けるようになります。それが仏教徒の生き方です。

「慈悲」という大きな生き方

仏教は勝利の教えです。我々は皆、勝利者の道を歩まなくてはならないのです。「上手くいくだろうか、失敗しないだろうか」と常に不安で生きるより、惨めな気持ちを全く経験しない生き方、確実に成功する生き方を選んだ方がよいのです。「そのような道なんかある筈がない、ただのお伽話だ」と思われるでしょう。しかし、道はあるのです。しかも誰にでも簡単に実践できるのです。

人間関係で完全な勝利を得るために、いかなる生命をもすべて自分の味方にするために、たった一つの呪文があります。それは「慈悲」という言葉です。では、「慈悲」とは何でしょうか。仏教では心の優しさを「慈悲」と言うことはご存じだと思います。しかし、単純な「優しさ」という言葉では慈悲の説明にはなりません。慈悲というのは一切の生命に、母が我が子に対するのと同じ優しさで接することです。「隣人に優しい、友人に優しい、家族に優しい、人間に優しい、動物も可愛いなら優しい」というようなことではありません。

慈悲という状態は、誰かから教えてもらわなければ、見たことも味わったことも経験したこともないものなのです。釈尊に教えてもらわない限り、慈悲を知っている人はいません。見たことも味わったこともないのだから、「慈悲」と聞いても、我々にはよくわからないのです。「慈悲を実践すると人間関係が上手く行きますよ」と言われると、慈悲を自分流に小さく変えて理解して、「私はどうも人づきあいが上手くできない。自分に自信がない。だから慈悲心を育てたい」と思ったりします。それでその人が慈悲を育てて幸福になるならば、それはありがたいことなのですが、目的があまりにも小さすぎると慈悲から得られる偉大なる結果を見落としてしまいます。これはたとえて言えば、「原子爆弾でないと蚊を殺せない」と言っているようなものなのです。

ほんのちょっとだけ海の水を手にとって、「海って本当にすごいものですね」と言っても、それは海の説明にも理解にもなりません。なめてみたら塩辛いとか、海のにおいがするとか、いくつかのことはわかるかもしれません。けれどもそんなちっぽけなものが海だということはできないでしょう? 本物の海を見なければ、海のことはわからないのです。アリのような小さな虫は、床の上にほんのちょっとこぼれた水にも溺れるのです。アリには、海など想像もできないのです。我々人間の生き方もそういう感じなのです。何人かの人々と上手くつき合うこともできない状態で、家族四人が仲良くすることさえできず、人生に失敗する。大さじ一杯の水で溺れているような感じで、スケールが小さすぎなのです。巨大な体のクジラであれば、広い海でもなんのこともないでしょう。南極にでも北極にでも、悠々と泳いで行きます。我々も、気持ち的にクジラぐらいに大きくなれば、何人かだけの小さな人間関係どころか、すべての生命との関係も簡単にうまくいきます。楽々と生きられるのです。

雌鳥の翼の中では、一緒に生まれたヒヨコたちが、ピヨ、ピヨと鳴きながらとても気持ちよく安心して休むのです。雌鳥の翼の温かみと安全性に惹かれているからといって、ヒヨコの兄弟たちが喧嘩しようとはしないのです。慈悲はこの雌鳥の翼のようなもので、すべての生命を包容するのです。穏やかな気持ちにあふれ、互いに憎むことも恨むこともなくなるのです。皆が仲良くしようとするのです。

我々はその「慈悲」を心に育てるのです。慈悲は、強力な力で、すべての心の汚れを清らかにしてくれるのです。強烈な精神的エネルギーです。生命に対するすべての差別意識を捨てて、広々した宇宙レベルの大きな見方で命を見られるようになることです。慈悲の心がどれほどのものかというと、お釈迦さまは、はっきりと、「慈悲こそ梵天の生き方(brahma vihāra)ですよ」とおっしゃっています。慈悲の人は、神々よりもレベルの高い梵天と同じレベルの心で生きていける。釈尊はインドのバラモン教が説く創造神の名前(Brahmā)をあえて慈悲の実践につけたのです。いわゆる、「神に祈ってお強請りする惨めな生き方」ではなく「神様のような気持ちで生きていられる方法」を教えてくれたのです。慈悲はそれくらいすごいはたらきなのです。慈悲はすごく尊い。絶大である。実際に生きているすべての生命にかかわる普遍的で欠かすことのできない生き方なのです。「慈悲」というはたらきは、無量・無限大の気持ちとして捉えなければなりません。

アリでもミミズでも、微生物でさえ、苦しみをいやがって、「より幸福な生き方はないか」と探し求めながら生きています。「自分にとってより良い環境で生きていきたい」と日々思っているのです。生命は、皆それぞれ、自分の命を維持するため、死を避けるため、苦しみをできるだけ控えるために、一生懸命に努力しています。皆、生きている限り幸せになりたい。その気持ちは同じです。そこに生命としての普遍的な真理があります。それをありのままの事実として理解することができれば、差別意識が全くなくなります。大きな見方で世の中を見ることができるようになります。慈悲は、すごく小さな自分を、全生命を平等に感じさせる大きな人間にしてくれるのです。慈悲を実践すれば、我々が抱えている様々な問題は、泡のごとく弾けて消えるのです。

釈尊は単純な理屈だけで慈悲を説かれたわけではありません。すべての真理を発見した悟りの智慧で我々の生きざまを観察して、「慈しみで生きてみなさいよ」とおっしゃっているのです。完全に恵まれた生き方をするためにはそれしか道はありません。世間には慈悲の見方はないのです。ややこしい、わけもわからない理屈をつけて、怒り・憎しみで、仕返しや殺しを正当化しようとするのです。敵を倒さないと自分が幸せにならないと思っているのです。

誰でもいずれ死にます。生きているのは、ほんのわずかな時間でしょう? その短い間に、喧嘩したり、競争したり、憎みあったり、相手を噛んだり、牙を出したり、いったい何をしているのでしょうか。争いから得るものは、何もありません。ただ、楽に生きていられなくなるだけのことです。現代世界では、科学でも経済でも、ライバルに負けるな、金儲けこそ大事だとしつこく教えられています。それは「必死で苦を追い求めなさい」と言っていることなのですが、誰もそれに気づかないようです。幸福に生きられない道を、なぜ探すのでしょうか。論理的に考えると、慈しみという生き方しかあり得ないことがわかるのです。慈しみこそ、この世で人間が抱えているすべての問題に対する答えなのです。

釈尊は慈悲のことを、できるだけ誰にでもわかり易く語りたかったのです。それで、大地のたとえで説法なさったのです。「どこかの愚か者が道具を持ってやってきて、『大地を壊してやるぞ、破壊してやるぞ』とあっちこっちに穴を掘ったり、唾をかけたり、尿をかけたりして壊そうとしても、大地が大地でなくなりますか」と比丘たちに聞くのです。比丘たちは、「そんなことはありません。そのバカ者が疲れ果てて苦しむだけですよ」と答えるのです。釈尊は、「だから、あなた方も大地のように大きな心をつくりなさい」と諭されるのです。

「自分は大地だ」とイメージしてみてください。そして、自分に対して敵意を持っている人の行為を「大地に唾をかけたり、尿を撒き散らしたりして大地そのものに損害を与えようとする行為と似ている」とイメージしてみるのです。そうすると、怒ることがバカバカしくなるのです。相手が敵として行動しても、「どうぞがんばってください」と穏やかな気持ちでいられるのです。誰かが爆弾を持ってきて「地球を壊してやるぞ」と爆発させても、地球を壊せるでしょうか。爆発の穴など地球のスケールから見ればなんのこともないのです。

しかし、慈悲はイメージ遊びではありません。生命に対する真理なのです。ただのイメージではなく、確実に、「広々した大地の気分」になることなのです。「そういう大きい心になりたい」という気持ちさえあれば、だいじょうぶです。なれます。今の自分の心は、砂一粒ぐらいの小さな心です。存在価値も感じません。それは別に恥ずかしいことでもなんでもありません。当たり前のことなのです。「あなたは砂一粒ぐらいの、小さくて、存在価値もない、いてもいなくてもどうでもいいような生命だ」と言われて恥ずかしくなったり機嫌が悪くなったりする人がいるならば、「私は本当に完璧だ、私は誰よりも偉い」と誤解しているからです。自分の心に聞いてみてください。それまで「自分が誰よりも偉いなどと考えたこともない」と思っている人の心の中にも、その気持ちが潜んでいることが発見できるのです。

釈尊が説く慈悲は、一滴の潮水にすぎない自分が海そのものになってしまう方法です。一滴の潮水が海と一緒になるのは、とても簡単です。「自分だけは特別だ」と無理することを止めればいいのです。慈悲の人は、「自分」という個人は特別ではなく、すべての生命と同一だと思うのです。

慈悲は生まれつき人間に備わっているものではありません。本来我々はわがままで、自分のことしか考えない生き物なのです。自分さえよければそれで十分だ、と思っているのです。だから他人に攻撃するのです。他人とどのように調和するべきかがわからないのです。なんとかして、この小さな自我中心的な心を大きく育てなくてはなりません。今はまだ小さくても、がんばって、大地や大空のように大きな慈しみの心をつくることが、我々仏教徒の努めなのです。

その方法はいたって簡単なのです。「すべての生命が幸福でありますように」と日夜、真剣な気持ちで念じてみるのです。心の中でこの呪文を念じ始めた時から、悩みは消えていくはずです。試してみてください。今まで自分に嫌な顔しか見せなかった人々が、微笑んでくれるようになるでしょう。
慈悲の言葉を念じる時は、声を上げて唱える必要はありません。お金も、時間もかかりません。宗教的な修行・儀式など、何もいらない方法です。最高に幸せになるために、これほど優れた手段はないのです。

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怒りの無条件降伏
中部経典「ノコギリのたとえ」を読む 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2004年6月