施本文庫

怒りの無条件降伏

中部経典「ノコギリのたとえ」を読む 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

慈悲と同一となる

大地のように堂々と

ここから、お釈迦さまは、慈悲の瞑想の禅定状態を、いろいろなたとえでもって、わかりやすく説明されるのです。

比丘たちよ、また、たとえば、人が、鋤と籠を持って、やって来るとします。このように、彼は言うとします。
『私は、この広い大地を、非地にしてやろう』と。(Ahaṃ imaṃ mahāpaṭhaviṃ apaṭhaviṃ karissāmī ti)。
彼は、次から次へと掘り返し、次から次へと撒き散らし、次から次へと唾を吐き、次から次へと尿をかけ、『おまえは、非地になれ。おまえは、非地になれ』と。

比丘たちよ、それについて、どう思いますか。はたして、その人は、この広い大地を、非地にしてしまうのでしょうか。

「そうではありません、尊師」
「それは、なぜでしょう」
「尊師、この広い大地は、深く、限りがないからです。それを非地にする(破壊する)のは、容易ではありません。ただ単に、その人は、疲労困憊してしまいます」

比丘たちよ、ちょうどこのように、他人に話しかけるときは、使用する言葉の用途が五つあります。
すなわち、――時機に(語る)、もしくは、非時機に(語る)。根拠に基づいて(語る)、もしくは、虚実を(語る)。柔和に(語る)、もしくは、粗暴に(語る)。有益に(語る)、もしくは、無益に(語る)。慈しみの心で(語る)、もしくは、怒りで(語る)――です。

比丘たちよ、他人は、時機に、もしくは、非時機に、語るのです。他人は、根拠に基づいて、もしくは、虚実を、語るのです。他人は、柔和に、もしくは、粗暴に、語るのです。他人は、有益に、もしくは、無益に、語るのです。他人は、慈しみの心で、もしくは、怒りで、語るのです。

比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。
すなわち、――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。
また、その人とその言葉に対しても、大地に等しい(paṭavīsamena cetasā)、増大した、増幅した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で接して生きていきます――と。
比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません。

《大地を非地にする mahāpaṭhaviṃ apaṭhaviṃ 》というのは、ちょっとわかりにくいかもしれません。たとえば大きな木を見つけて「この木を壊してやるぞ」と思うならば、本気になれば簡単にできるでしょう。いくら大きな建物でも、壊そうと思えば壊せます。けれども大地を壊すことはできますか? いくら怒っても、それだけは誰にもできないでしょう? どんな爆弾をしかけても、人間の力では、大地を壊してしまうことはできません。

原文で読むと、これはものすごく力強いたとえなのです。ここはやはりパーリ語でないと、翻訳ではちょっとこの力強いニュアンスが出ないのです。《非地にする》というよりも、「大地を破壊してやるぞ」という感じです。大地を破壊しようと思って何をやっても、あちこちに穴を掘ったり、唾をかけたり、尿をかけたりして、「壊してやるぞ、壊してやるぞ」とがんばっても、大地が壊れますか。大地が大地でなくなりますか。そんなことはあり得ません。大地はものすごく巨大なものであって、誰にも大地を消すことはできません。結局大地を壊そうとした人は、疲れ果てて終わるだけなのですね。

批判的な言葉を言われた時は、五種類のどんな場合でも、己の心を大地にたとえて、動じないようにするのです。怒りは出さないのです。相手に対して慈しみの心を育てるのです。イヤなことに出会ったその機会を利用して、慈悲の瞑想を完成させるのです。

この大地のたとえは、仏教ではよく使われるのです。子どもの頃から、「心をどのように育てるかというと、大地のように育てるんだよ」などと、よく言われるのです。大地は誰にも壊せません。私たちが何をしても、大地はそれに逆らって反撃することはありません。そのように、「私の心は大地のように大きい、私の慈しみの心は誰にも壊せない、何をされても反撃する気持ちは起こさない」と言える状態にまで、慈しみを育てないといけないのです。たとえ敵が「殺してやるぞ」とがんばっても「どうぞがんばってください」と落ち着いていられるように、何をされてもビクともしない心を育てる。これは釈尊による躾なので、私たち出家は、このお経の文章を暗唱しておくのです。

現代社会では、いろいろなところで、山を削ったり、すごく大きな穴を掘ったり、爆弾をしかけたり、いろいろなことをしています。けれどもやはり大地を見ると、大地はなんのことなく冷静にしているのですね。山ぐらい削られたからといって、大地が消えるわけではない。それを見ながら、「やはり私の心も、この大地のように《paṭavīsamena cetasā》、世界からいくら非難されても完全に落ち着いていて、全く怒らないようにしなくてはいけない。この大地のように心を育ててみよう」という気持ちで慈悲を実践するのです。

虚空のごとく染まらずに

比丘たちよ、また、たとえば、人が、赤か、黄か、青か、茜色の塗料を持って、やって来るとします。このように、彼は言うとします。『私は、この虚空に、絵を描いてやろう。絵が見えるようにしてやろう』と。
比丘たちよ、それについて、どう思いますか。はたして、その人は、この虚空に、絵を描いてしまうのでしょうか。絵が見えるようにしてしまうのでしょうか。


「尊師、そうではありません。なぜならば、この虚空は、形がなく、つかみどころがないからです。そこに、絵を描き、絵が見えるようにするのは、容易ではありません。ただ単に、その人は、疲労困憊してしまいます」

比丘たちよ、ちょうどこのように、他人に話しかけるときは、使用する言葉の用途が五つあります。
すなわち、――時機に(語る)、もしくは、非時機に(語る)。根拠に基づいて(語る)、もしくは、虚実を(語る)。柔和に(語る)、もしくは、粗暴に(語る)。有益に(語る)、もしくは、無益に(語る)。慈しみの心で(語る)、もしくは、怒りで(語る)――です。

比丘たちよ、他人は、時機に、もしくは、非時機に、語るのです。他人は、根拠に基づいて、もしくは、虚実を、語るのです。他人は、柔和に、もしくは、粗暴に、語るのです。他人は、有益に、もしくは、無益に、語るのです。他人は、慈しみの心で、もしくは、怒りで、語るのです。


比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。

すなわち、――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。
また、その人とその言葉に対しても、虚空に等しい、増大した、増幅した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で接して生きていきます――と。
比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません。

このたとえは、大空のたとえです。慈しみの人の心は大空のようにしなさい、と。世の中の人々がありったけの絵の具を持ってきて、空に色んなことを描いてやるぞ、落書きで汚してやるぞ、とがんばってもできますか。汚れるのは自分だけ。空に絵は描けません。描こうとする人が、ただ疲れるだけです。そのように、あなたたちも、人々からどんな言葉を言われても、心を動揺させないで、怒らないでいなさいよ、とおっしゃるのです。

心は空、人の言葉は顔料です。心を大空のように育てている人がいるとします。誰かが五種類の言葉という顔料を持ってきて、その人の心という虚空に「怒り」という絵を描こうとしても、描けません。
比丘たちは、イヤなことに出会っても、自分たちの心を何の絵も描けない虚空のようにして、「怒りが現れないように」と励まなくてはならないのです。

大河のように悠々と

比丘たちよ、また、たとえば、人が、火の点いた松明を持って、やって来るとします。このように、彼は言うとします。『私は、この、火の点いた松明で、ガンジス河を熱してやろう。沸騰させてやろう』と。
比丘たちよ、それについて、どう思いますか。はたして、その人は、火の点いた松明で、ガンジス河を熱してしまうのでしょうか。沸騰させてしまうのでしょうか。


「尊師、そうではありません、なぜならば、ガンジス河は、深く、無量だからです。火の点いた松明で熱し、沸騰させるのは、容易ではありません。ただ単に、その人は、疲労困憊してしまいます」


比丘たちよ、ちょうどこのように、他人に話しかけるときは、使用する言葉の用途が五つあります。

すなわち、――時機に(語る)、もしくは、非時機に(語る)。根拠に基づいて(語る)、もしくは、虚実を(語る)。柔和に(語る)、もしくは、粗暴に(語る)。有益に(語る)、もしくは、無益に(語る)。慈しみの心で(語る)、もしくは、怒りで(語る)――です。

比丘たちよ、他人は、時機に、もしくは、非時機に、語るのです。他人は、根拠に基づいて、もしくは、虚実を、語るのです。他人は、柔和に、もしくは、粗暴に、語るのです。他人は、有益に、もしくは、無益に、語るのです。他人は、慈しみの心で、もしくは、怒りで、語るのです。


比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。

すなわち、――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。
また、その人とその言葉に対しても、ガンジス河に等しい、増大した、増幅した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で接して生きていきます――と。
比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません。

このたとえは水のたとえです。人が松明を持ってきて「ガンジス河の水を沸騰させてやるぞ」と松明の火をつけてやろうとする。そんなことでガンジス河の水が温まるはずがありません。ガンジス河はインドで最も広大な河ですからね。特に、お釈迦さまがおられたあたりでは、すごく河幅が広いのです。ですから、たとえとして、当時の人々にわかりやすいのです。

人々が、五種類の言葉であなたの心に火をつけようとする。けれどもあなたたちの心はガンジス河のように広いものにしておきなさい、という釈尊の躾です。批判的なことを言った人にも慈悲を実践し、それをバネにして、すべての生命に慈悲を実践して、一切の生命に対する慈しみという感覚、その禅定を作ってみなさい、と薦めておられるのです。

よくなめされた猫の皮のように柔らかく

比丘たちよ、また、たとえば、柔らかい綿毛のようになめされ、よくなめされ、とてもよくなめされた、サラサラと音がしない、バラバラと音がしない、猫の皮があります。人が、木片か小石を持って、やって来るとします。このように、彼は言うとします。『私は、この、柔らかい綿毛のようになめされ、よくなめされ、とてもよくなめされた、サラサラと音がしない、バラバラと音がしない、猫の皮を、木片か小石で、サラサラと音をさせてやろう。バラバラと音をさせてやろう』と。
比丘たちよ、それについて、どう思いますか。はたして、その人は、その、柔らかい綿毛のようになめされ、よくなめされ、とてもよくなめされた、サラサラと音がしない、バラバラと音がしない、猫の皮を、木片か小石で、サラサラと音をさせてしまうのでしょうか。バラバラと音をさせてしまうのでしょうか。


「尊師、そうではありません、なぜならば、その猫の皮は、柔らかい綿毛のようになめされ、よくなめされ、とてもよくなめされ、サラサラと音がしないからです。バラバラと音がしないからです。木片か小石で、サラサラと音をさせ、バラバラと音をさせてしまうのは、容易ではありません。ただ単に、その人は、疲労困憊してしまいます」

比丘たちよ、ちょうどこのように、他人に話しかけるときは、使用する言葉の用途が五つあります。
すなわち、――時機に(語る)、もしくは、非時機に(語る)。根拠に基づいて(語る)、もしくは、虚実を(語る)。柔和に(語る)、もしくは、粗暴に(語る)。有益に(語る)、もしくは、無益に(語る)。慈しみの心で(語る)、もしくは、怒りで(語る)――です。

比丘たちよ、他人は、時機に、もしくは、非時機に、語るのです。他人は、根拠に基づいて、もしくは、虚実を、語るのです。他人は、柔和に、もしくは、粗暴に、語るのです。他人は、有益に、もしくは、無益に、語るのです。他人は、慈しみの心で、もしくは、怒りで、語るのです。


比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。

すなわち、――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。
また、その人とその言葉に対しても、猫の皮に等しい、増大した、増幅した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で接して生きていきます――と。
比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません。

このたとえはちょっとわかりにくいと思います。猫の皮というのは何のことなのか、私にもよくわかりません。当時のインドに、猫の皮をなめした何かがあったのでしょう。とにかく、綿のように柔らかいものだそうです。それで音を出そうとしても、音は出ません、と。

どのような五種類の言葉を言われても――時機を見て言われる場合、時機におかまいなく言われる場合、何か自分がしたことで叱られる場合、何もしていないのに叱られる場合、優しい言葉で言われる場合、粗雑な言葉で言われる場合、親切に言われる場合、ジャマしてやろうという悪い意図で言われる場合、慈しみで言われる場合、怒りで言われる場合――、そういうどんな条件で言われても、「私の心は動揺させません。その人に対しては、怒りを返すのではなくて、慈悲の瞑想をするんだぞ」、と決める。そして、その場でもって慈悲の瞑想を完成させる。それがあなたたちの戒めであって修行だよ、とお釈迦さまはおっしゃるのです。

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怒りの無条件降伏
中部経典「ノコギリのたとえ」を読む 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2004年6月