一生役立つブッダの育児マニュアル
親の「どうしたら?」と子供の「どうして?」に答えを出します
アルボムッレ・スマナサーラ長老
親は子供の最初の教師
親の仕事は、立派な人間を育てることであって、学者や政治家や音楽家を育てることではありません。親の責任はものすごく大きいのです。
なぜなら、親の教育というのは、その子が死ぬまで関係する大事な役割を持っているからです。
どんな親にも覚えておいて欲しいのは、自分が子供に教えること、しつけすることは、その子が死ぬまで役に立つのだ、ということです。
学校で数学を勉強しても、それは一時的な知識に過ぎません。たとえエンジニアになっても、60歳で退職するまでの仕事でしょう。おじいちゃんになったときには、それまでの技術は全然役に立ちません。その頃はゲートボールでもできたほうが役に立つかもしれない。
ですから、そういう人生の目的というのは、本当に意味がないのです。あくまで仕事している間だけ必要なもので、その後は役に立ちません。
だから、まず覚えておいて欲しいのは、親とは死ぬまで子供に必要なことを教える先生である、ということなのです。
両親について、お釈迦さまが使っているこんな言葉があります。
Pubbācariya、読み方はプッバーチャリア。この言葉をよく覚えておいてください。お釈迦さまの言葉ですからね。
分析するとpubba(プッバ)とācariya(アーチャリヤ)の二つの言葉でできた複合語です。Pubbaは「最初、はじめ」、ācariyaは「教師、先生」という意味になります。
両親とは誰なのかといえば、教師、先生なのです。だから、自分に子供が生まれてきたら、その両親にまず考えてほしいことは、これから自分が先生、教師になるということです。自分が最初の教師なのです。自分の教えることは、その子が死ぬまで役に立つのです。
学校の先生は最初の教師ではありません。ある専門分野だけを教える教師です。それは必ずしも、一生役に立つということではないのです。学校で国語を勉強して、たとえ歳をとってその内容を忘れたからといって、どうということはありません。他の勉強も忘れても大丈夫です。危険はありません。
でも、両親が教えてくれた事柄を忘れたら、そこには確実に危険があるのです。そういうわけで、両親にどれほど大変な責任があるか、ということを理解してもらえればありがたいと思います。
同じ言葉を子供にも言います。「あなたの両親は、あなたの最初の先生ですよ」と。親というのは、ただ、なんでもわがままを聞いてくれる、欲しいものをねだれば何でもくれる存在ではなくて、お母さん、お父さんというのは先生なのです。
ですから、ちょっと厳しいし、気をつけなくちゃいけないよ、ということを子供も勉強しなくてはいけない。これは大事なことなのです。
なぜこんな話をしたかというと、私たちが幼稚園や小学校に行って最初に出会った先生が、機嫌が悪く、ひとかけらの親切心もなく、ちょっとしたことで怒ったりする嫌な人だったら、その子は一生学校が嫌になるでしょう。先生と聞いたとたん、ものすごく嫌な気分になってしまう。
私も、実際そういう人々を知っています。頭がよくて勉強ができる、そういう能力は見えるのに、勉強を続けられず学校を中退してしまう。そうやってドロップアウトした若者何人かとつき合ってみたら、彼らはけっこう頭がよくて、すごく鋭くて判断能力もあるのです。
そこで私は「なんであなたは学校に行かないの? 学校ぐらい卒業した方がいいでしょう」と聞いてみました。そうしたら「○○先生がこう言ったんだ。自分がやってもいないことを、調べようともしないで、自分がやったとさんざん言われ、批判されるんだ」と言うのです。しかも、他の子供が何か悪いことをしたら、まず疑われるのは私なんだと言う。それでこの子は学校に行くことをやめてしまった。
そういうケースをいくつか見てきましたから、やっぱり先生がひどいと、すごく大変なことになるのです。
もっとも危険なのは、最初の先生がいい加減な場合です。つまり、両親があまりにも無責任な人で、いい加減な人だったら、恐ろしいことになるのです。
世の中を見ると、親を殺す子供がいるでしょう。親が子供に殺されたというケースを調べてみてください。ほとんどの場合は、親に問題があるのです。賭け事にふけっているとか、ろくに仕事もしないとか、子供に対して理不尽に何でもかんでも怒るとか、そういう、性格ができていないろくでもない親、そういう人が「最初の先生」になってしまったら……。子供の方が我慢できなくなって、親が子供に殺される、という結果にまでつながるのです。
なぜそんな悲しい出来事が起こるかというと、最初の先生が自分の役目を果たしていないからです。はじめから、「私は母親だ、私は父親だ」と思ってしまうと、うまくいかない場合もあります。
ですから、小さい子供を持つ両親は、「私は教師だ」と思って、教師として子供に必要なしつけをした方がいいんじゃないかな、と思います。教師には、子供のことがよくわかるのです。いたちごっこみたいなもので、子供は勉強したくない、教師はそれでも教えてあげなくてはいけない、という遊びのゲーム感覚なのですね。子供は逃げる、先生は何とか迫って勉強させようとする。いわゆる塾とは違います。
塾というのはちょっと不自然なところですね。あれはちょっとした店なのです。教育を売って金を儲ける、美容室や薬局と同じようなお店です。
でも本当の先生というのは、もっと大変な仕事です。この間も塾の先生に聞いたのですが、「学校で教えることは大変苦しい。それに比べれば、塾で教えるはラクです。なぜなら、塾に通ってくる子供たちは、勉強しなくてはいけないと決まっているから、ただ教えて帰せばいいだけです。その子の性格がどうとか、どんな病気かとか関係ない。服や髪型も関係ないのだから」というのです。
高校や中学なら、子供たちは、どうすれば勉強しないでサボることができるかとそればっかり考えています。先生も責任があるから、どうすればこの子たちが勉強するかということを考えなければいけない。それが先生の大変な仕事なのです。
両親も同じです。子供は行儀よくご飯を食べたくない。たとえば小さな子はお箸を使えない。だから手で握って食べたいのです。左手でも右手でも食べて、手が汚れているにも関わらず何かにさわる。小さいから何もうまくできない。子供の立場から考えると、「手で食べるのはこんなに簡単なのに、なんで親は箸に変えなさいと言うんだろう。あぁ、めんどくさいなあ。なんで食べながら走っちゃいけないの?」となる。子供は、おもちゃや人形があるなら、ご飯を食べながらそれで遊びたくなっちゃうでしょう。ご飯を食べているときも、他のものを見たらすぐにそこに行っちゃうでしょう。
そこで親が、教師として、先生として考えなくてはいけないのです。ただ怒って「ダメですよ」と言っても、何でダメなのか子供にはわかりません。先生として、「どんなふうに言えばこの子が理解してくれるか?」と考えるように習慣づければ、立派な親になれます。ともかく、両親にまず知ってほしいのは、自分たちがプッバーチャリア、最初の先生だということです。
この施本のデータ
- 一生役立つブッダの育児マニュアル
- 親の「どうしたら?」と子供の「どうして?」に答えを出します
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2004年8月