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こころのセキュリティ

爆発寸前のあなたを幸せに導く「日夜の指針」 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

第二章 こころの必須栄養素「日夜の指針」

「日夜の指針」全文

第一偈

Namāmi(ナマーミ) buddhaṃ(ブッダン) guṇa(グナ)sāgarantaṃ(サーガランタン)
大海の如き大徳者である、ブッダ(佛)に礼拝いたします。

Sattā(サッター) sadā(サダー) hontu(ホントゥ) sukhā(スキー) averā(アヴェーラー)
生きとし生けるものが、幸福・安穏に暮らせますように。

Kāyo(カーヨー) jiguccho(ジグッチョー) sakalo(サカロー) dugandho(ドゥガンドー)
この体は厭わしい、身の毛もよだつ、悪臭のする汚物です。

Gacchanti(ガッチャンティ) sabbe(サッベー) maraṇaṃ(マラナン) ahañca(アハンチャ)
すべての生命が死にゆくように、私も必ず死ぬべき存在です。

第二偈

Namāmi(ナマーミ) dhammaṃ(ダンマン) sugatena(スガテーナ) desitaṃ(デースィタン)
善逝(世尊)の説かれた、ダンマ(法)に礼拝いたします。

Sattā(サッター) sadā(サダー) hontu(ホントゥ) sukhā(スキー) averā(アヴェーラー)
生きとし生けるものが、幸福・安穏に暮らせますように。

Kāyo(カーヨー) jiguccho(ジグッチョー) sakalo(サカロー) dugandho(ドゥガンドー)
この体は厭わしい、身の毛もよだつ、悪臭のする汚物です。

Gacchanti(ガッチャンティ) sabbe(サッベー) maraṇaṃ(マラナン) ahañca(アハンチャ)
すべての生命が死にゆくように、私も必ず死ぬべき存在です。

第三偈

Namāmi(ナマーミ) saṅghaṃ(サンガン) munirāja(ムニラージャ) sāvakaṃ(サーワカン)
牟尼王(世尊)の弟子たる、サンガ(僧)に礼拝いたします。

Sattā(サッター) sadā(サダー) hontu(ホントゥ) sukhā(スキー) averā(アヴェーラー)
生きとし生けるものが、幸福・安穏に暮らせますように。

Kāyo(カーヨー) jiguccho(ジグッチョー) sakalo(サカロー) dugandho(ドゥガンドー)
この体は厭わしい、身の毛もよだつ、悪臭のする汚物です。

Gacchanti(ガッチャンティ) sabbe(サッベー) maraṇaṃ(マラナン) ahañca(アハンチャ)
すべての生命が死にゆくように、私も必ず死ぬべき存在です。

三帰依がこころに呼びかけるとき

 第一偈の一行目。

Namāmi(ナマーミ) buddhaṃ(ブッダン) guṇa(グナ)sāgarantaṃ(サーガランタン)

「ナマーミ」=礼をします。
パーリ語で「ナマーミ」という語の意味は、たんに礼をしているというだけではなく、尊敬して礼をしているのだ、というふうに使います。その人が教えるとおりに実践します、というかなり力のあることばです。

現在、一般的にインドで用いている挨拶のことばは「ナマステー」と言うのですが、昔のインドでは一般の人びとは「ナマステー」とは言わなかったようです。昔は、神々、聖者たちを礼拝するときに使ったことばだったのです。ちなみに、昔のインドでふつうの挨拶に使ったことばは、Svasti(スワスティ)=幸せで、Śānti(シャーンティ)=平安、Svāgata(スワーガタ)=来られて光栄です、などです。

「ナマーミ」というのは、「私は礼拝いたします」という意味になります。

仏教徒にとって、ブッダは一切の生命より秀れている尊い方です。完全なる覚りをひらいたブッダは神々などよりもずっと尊く、なんの疑問を抱くこともなくブッダを尊敬してその教えに従うのです。
「ナマーミ ブッダン」とは、そういう意味です。仏教徒はだれでも、この「ナマーミ ブッダン」と唱えただけで、こころが落ち着くのです。こころに喜びを感じ、清々しい気持ちになるのです。そのこころには、少しの悩みも、怒りも、欲も存在していません。

仏教徒のブッダにたいする尊敬のほどは絶大なものです。ブッダが衆生にたいして無量の慈しみをもっておられること、私たちの苦しみをなくす道を教えるために、どれほど苦労されたかを思うと、目から涙が落ちるほどです。
ふつう、この宗教の世界で神にたいする信仰には、一種の畏怖を感じさせる部分も少なくありません。なにか悪いことでもすると、「神のお怒りに触れる」とか「神はお許しにならない」などと言って威厳を強調したりしていますが、ブッダには怒りも、欲も、無知もありません。ブッダからは幸福しか得られないのです。
ブッダへの尊敬はとてつもなく深いので、仏教徒はブッダを描いた絵などを見るだけでも、こころに喜びをおぼえるのです。

この世の中で生活をしている人間は、いろいろな欲や怒りでいつ感情を爆発させるかわからないような状態にいるわけですから、自宅や会社の自分の机など、いつも目の触れる場所にブッダを描いた仏像か仏画を置いておくとよいのです。ちょっと怒っても、不安になっても、悪いこころが芽生えてきても、それを見ただけでこころの汚れが落ち、清々しい気持ちになっていくのです。
「ナマーミ ブッダン」と口ずさんだだけで、確実に自己は守られるのです。

次に「グナサーガランタン」の意味ですが、「グナ」=徳のこと、性格のこと。この場合は、ブッダの人格、徳のことを意味します。「サーガラ」=海のこと、「アンタ」=終点、果てという意味ですが、海には向こう側、終わりというものがないので、転じて限りない、果てしないという意味になります。
ですから、ブッダの徳はほかに比べることのできない果てしのないものだ、というふうに解釈します。ブッダの徳にいつも「無限」「無量」という形容詞がつくのは、そのせいです。仏教徒はいつ、どこででも、ブッダの徳というものを、自分のできるかぎりの理解で胸に置いておくのです。そうしておけば、こころがちょっとでも汚れたとき、混乱したとき、不幸な出来事に遭遇したときなど、

Namāmi(ナマーミ) buddhaṃ(ブッダン) guṇa(グナ)sāgarantaṃ(サーガランタン)

という一行を念じただけで、瞬時にこころは落ち着くのです。

次に、第二偈の一行目に移りましょう。

Namāmi(ナマーミ) dhammaṃ(ダンマン) sugatena(スガテーナ) desitaṃ(デースィタン)

「スガテーナ」=釈尊によって。「デースィタン」=説かれた。「ダンマン」=法に。「ナマーミ」=礼拝します。
「スガタ(善逝)」というのは釈尊に用いる称号の一つです。完全なる解脱を体験した人と解釈すればいいと思います。仏教徒にとって、釈尊の次に帰依するのは「法(ダンマ)」です。ブッダが涅槃に入られて以後、尊師の役目は「法」が果たしていくのです。簡単に言えば、生きたブッダは「法」ということになります。「法」には普遍的な真理が明かされていますから、仏教徒は生きていくうえでなにか不安に見舞われたり、解決のつかない問題が生じたときなど、「法(ダンマ)」のなかに必ず答えはあるのです。
時代がどんなに変わっても、私たちの生き方や価値観が変わっても、「法(ダンマ)」に明かされている真理は古くもならず、永久不変の燈火として仏教徒のこころを照らしつづけるのです。

第三番目の偈の一行目にいきましょう。

Namāmi(ナマーミ) saṅghaṃ(サンガン) munirāja(ムニラージャ) sāvakaṃ(サーワカン)

「ムニ(牟尼)」=仙人、聖者という意味。「ラージャ」=王。仙人の王というのは、つまりは釈尊のことです。「サーワカン」=弟子。
仙人の王の弟子に礼拝しますという意味になりますが、釈尊の覚りは本物で、また法が解脱するための正しい道であるということを証明できる人は、釈尊と同じように覚りをひらいた弟子たちです。釈尊の教えを聞いた人びとの多くは、覚りをひらきました。それらの尊い弟子たちもまた私たちに、釈尊と同じ幸福への道を教えてくださるのです。釈尊が涅槃に入られたあともそうですが、現代ではなおさら釈尊ご自身に直々指導を受けることは不可能なので、弟子たちが私たちの苦しみを憐れんで指導してくれるのです。
したがって、仏教徒は「サンガ」に帰依するのです。この場合、ある特定の個人的な仏弟子ではなく、ブッダのすべての出家した弟子たちを意味するのです。

このように、仏教徒は仏・法・僧に帰依し、自分の生き方は仏・法・僧に導かれ、守られて生きていることを確認するのです。それを確認することで、私たちはいたずらに感情に振り回されるような人生にならないよう、そのためにも仏・法・僧につねに恥じることのないように生きる努力をするのです。

この詩(偈)のそれぞれの第一行目にある三つのことばの目的は、こころに安心感、安らぎを与えることです。自分はいつでも仏・法・僧に守られている、自分の生きていくリーダーは仏・法・僧であると知ることで、不安が消え、確信が生まれるのです。これが、仏教用語でいう「信(サッダー)」です。

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こころのセキュリティ
爆発寸前のあなたを幸せに導く「日夜の指針」 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2002年9月