何が平和を壊すのか?
争いの世界を乗り越えるブッダの智慧
アルボムッレ・スマナサーラ長老
出世間のススメ
◎納得がいかない人生
最後に、仏教の究極的な真理を紹介しなくてはなりません。仏教の立場から観ると、すべての生命の人生は不満に満ちているのです。どのように努力しても、どれほど成功しても「何か足りない」という気持ち、もっと頑張らなくてはならないという気持ちがいつでも脳裏にこびりついているのです。この状態をドゥッカ(dukkha)「苦」と言います。単純に苦しいというより、深い意味をもっている言葉です。ブッダは「苦」の問題を四つの角度から説明しました。これは誰にも否定できない、四つの聖なる真理ですので、「四聖諦」と呼ばれています。
生きることは尊い、生きているって素晴らしい、何かわけがあって私たちは生を頂いている、などの感情を煽る言葉が世に溢れています。しかしこのような言葉が正しいと証明できる証拠は一つも見当たらないのです。このような言葉は事実を語っているのでなく、人間の希望を表しているだけです。残念ながら、希望は事実になりません。
事実は「生きることは苦しみだ」ということです。何のために生きているか分からないのに、生き続けることには並ならぬ努力をしなくてはいけない。そして限りなく努力しても、年を経て老いる。病気にもなる。嫌なことにはいつでも出会わなくてはならない。期待するものは殆ど叶わない。あって欲しくないことは起こる。挙句の果てに死んでしまって人生に負ける。何か、死ぬために必死で苦労したような結果になる。
命の意味を理解しようと天の向こう側にまで首を延ばして妄想せずとも、自分自身の人生を具体的に見れば、この「苦」の真理を簡単に発見できるのです。
生きることはなぜ大変なのでしょうか? なぜ、何を得ても満足に至らないのでしょうか? それは全てのものが無常だからです。ご飯を食べても身体が無常だから、摂取したものは消える。またお腹が空く。これには終わりがないのです。食べないと死にます。しかし、食べれば永遠に生きられるということはありません。食べても死ぬのです。
理由は簡単です。身体は無常だから壊れます。摂取する品物も無常だから壊れてゆく。壊れるものを修理するため、壊れるものを使っても、壊れてしまうことには変わりありません。シャボン玉がはじけないように、他のシャボン玉でガードしてもはじけます。壊れないようにする努力の結果と言えば、それは一体何でしょうか?――「苦」とは、この真理、事実なのです。
◎楽を目指しても収穫は苦
少々観察しただけでも、生きる努力は空しいものだと分かる気がしますが、また分からない疑問が一つ生じてきませんか? いくら「苦」だと言われてもなぜ生命は努力して生き続けるのでしょうか? なぜ苦が終わらないのでしょうか?
その答えも驚くほど簡単です。人は死にたくないのです。老いたくもない。病気にもなりたくない。そして何とかすれば病・老・死から逃れられるのではないか、と思ってしまう。つまり、終わりなく何とかして生きようとしているのです。何としてでも死を避けようとしますが、しかし、確実に死は訪れます。否、自分が死を目指して走っているのです。それでも、死などあり得ないことにして、快楽を探して生きている。人の辞書には、「私が死ぬ」という言葉は全く載っていないのです。
私たちは身体に、生に固く執着しています。身体から得る刺激に依存しているのです。見たり、聞いたり味わったり、触ったり、触れたりする感覚に溺れて、これしか楽しみがないと思っている。ゆえに死にたくないのです。死にたくないので、「苦を味わいながら生きること」に努力し続けます。すべての生命は、楽を目指しても収穫は苦になるという、悪循環に見事に嵌められているのです。お釈迦さまはこの状態を「渇愛」(taṅhā)と呼びました。
◎安らぎは何処にある?
人間にとって「安らぎ」とは何なのか、と考えなくてはなりません。宗教家も哲学者も、まだ納得のいく答えを見つけていないようです。今までの説明で、幸福になろうと生きることにあがいても、結果は同じなのだとおわかりになると思います。ブッダは生に対する執着、渇愛を完全に捨てれば良いと説かれています。「何としてでも生き続けるのだ」という心の本来の気持ちを捨ててしまえば、今まで味わったこともない安らぎを経験できます。渇愛を完全に捨てるのですから、この安らぎだけは論理的にいえば消えない、無くならないのです。しかし、この究極の安らぎを表現できる言葉は存在しません。
◎争いの世界を乗り越える八支の道
「死にたくない、生き続けたい」という身体に対する執着は、簡単に落ちるものではありません。これは本能(煩悩)ですからね。
渇愛を全て滅するために、お釈迦さまの説かれた「八正道」という方法があります。感情に操られるまま、死ぬまで生きることは無知な生き方です。「生きるとは何なのか」と具体的に理解する智慧が必要です。「智慧」とは、実際に生きることがどこまでも生命を苦しめる、虚しい循環であることを理解することをいうのです。智慧は一日にして現れるものではありませんが、死ぬ前に開発した者が勝ちです。ブッダはその方法を実践しやすいように正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定という八つの項目に分けて説かれました。「正」という言葉は、この方法が完全無欠であるゆえに付いているのです。
(一)「正見」とは物事をいつも客観的にみること。偏見・主観などを止めることです。主観的な意見は、いかに普遍的に見えようと簡単に変わってしまいます。そのような意見、私見などに執着しないで客観的にものごとを観察する。「苦」の発見ができるように観察をする。
(二)「正思惟」とは正しい考え方です。人は自由に考えるのは好きなようですが、誰一人として役に立つ思考は持っていません。思考といっても欲、怒り、憎しみ、嫉妬などの感情に支配されて妄想しているだけ。世の中の苦しみが減るどころか増える一方なのは、人の思考の所為です。間違った思考によって、戦争・殺戮・テロ行為などが絶えないのです。くだらない、無意味な、役に立たない、不幸の原因になる思考をやめて、慈しみの思考、非暴力的な思考(平和的な思考)、欲を絶つような(他人を助けることなど)思考をしてください。何を考えても構わないわけではないのです。思考を暴走させず、清らかなことのみを考えることです。
(三)「正語」とは正しい言葉を語ることです。何が「正しい」言葉なのか、私たちははっきりとわかっていません。正語か否かを判断する定義は、「自分のためになり、他人のためにもなる言葉を話すこと」です。具体的には、嘘を言わないこと。人を傷つける言葉を言わないこと。仲を裂く目的で二枚舌を使わないこと。無駄話をやめること。もし感情的になって無責任に話すことになったら、さらに無知を育てるはめになります。
(四)次に実践しなくてはならないのは「正業」です。正業とはからだの行為を指しています。お釈迦さまは「殺生をやめること、盗まないこと、よこしまな行為をしないこと」という具合に明確に定義している。しかし、殺生をしないだけでは、心は育ちません。ポジティブに、一切の生命に慈しみの気持ちで接して、生活して欲しいのです。他を殺す行為ではなく、命を助ける行為をします。盗みをしないで与える行為をします。よこしまな行為を止めて自制することにチャレンジしてみるのです。
(五)「正命」は正しい仕事をするという意味です。生活のためであっても、殺生や盗むことなどは絶対止めるべきです。お金さえ入れば何をしてもいい訳ではない。幸福は金で買えるものではないのです。悪いことをして金持ちになっても、例えば暴力を振るって、また麻薬の仕事で金持ちになって高級車を乗り回しても、誰も羨むことはありません。生きるため、悪いことしてでも生計を立てることには賛成できない。それは渇愛が強い人の思考です。渇愛によって得られるのは苦です。たとえ苦しくても、罪を犯して食べてはいけません。罪によって家族を養ってはいけません。
(六)次は「正精進」です。これも闇雲に努力するのではなく、正しい目的を立ててそれを目指して絶えず努力することです。では正しい目的とは何でしょうか? いま犯している悪事を止める精進。まだ犯したことのない罪をこれからも如何なる場合でも、いくら誘惑されて犯さないための精進。自分の善いところを完成する精進。まだ実現してない善いことを実現するための精進。これらが精進・努力の完全な定義です。
(七)「正念」は常に自分の身体と心の動きに「気づいて」いること。常に気をつけて確認をし続けることです。これは「生きる」とは如何なることなのか、客観的に具体的に発見するために絶対必要な実践です。ヴィパッサナー実践は「正念」の実践です。この実践で渇愛を絶つために必要となる、智慧が現れるのです。
(八)そして最後に「正定」が挙げられます。心を常に統一しておくことです。心が混乱している状態ではなく、落ち着き、集中し統一されている。正定があることによって、穏やかな気持ちで間違いのない立派な行動ができるのです。
◎平和のために知るべきこと
あまりに深く、すべてを超越した「ブッダの真理」について、駆け足で見てきました。本書を読まれて、納得できるところも首を傾げるところも当然あったと思います。一応、結論だけ憶えておいてください。すべての苦しみを乗り越える仏教の真理は、完全なる心の平安を、完全なる幸福を得るために説かれた教えです。ある角度から物事を考えて作り出した思考の一種ではなく、普遍的な真理です。ふつうの人々に考えられない、しかし理性ある人々には決して反論できない教えなのです。
生きることはドゥッカ(苦)だとお話しました。私たちの人生は、どう頑張っても結局は無意味で終わってしまうのです。そこで当然心の中でもっと楽に生きられる方法はないかという期待が生まれてきます。本当のことが分からない人は、楽な生き方を追い求め、別の方法でまた頑張ります。しかし、同じ苦の循環からは脱出できません。医学を全く知らない人の治療のようなものです。
もし苦しみから脱出したいのであれば、お釈迦さまの説かれた八正道を実践することです。もっと正しくありのままにものごとを見る――正見。正しく考える――正思。正しい言葉を語る――正語。正しい行いをする――正業。正しい良い仕事をする――正命。正しい目的を目指して努力する――正精進。瞬間瞬間すべてが無常であるとわかる観察能力をつけておく――正念。心を統一する――正定。
それだけでOKなのです。この八つの方法を実践すれば、一切の問題を解決することに必ず成功します。八正道はとても具体的で論理的で、誰にでも実践できます。それがブッダの教えの素晴らしさなのです。
ここでもう一度、ブッダの教えは古代人の時代遅れの思考ではなく、普遍的な事実・真理を語られているのだと強調したいのです。真理を知れば、すべての争いや問題が消えてしまいます。世の中の平和のため、私たち個人個人の平和のため、人間は何をおいても真理を知るべきなのです。信仰や習慣などに引っかかると危険です。自分たちの信仰だからとか、私たちの文化だからとか、そんなことは気にしないで欲しい。「私が嫌いだから」「人に言われたから」といって、地球が平らになるでしょうか。個人の主観がどうだろうとも地球は丸いのです。
宇宙の問題、地球の問題、世界情勢の問題はさて置いて、何よりも先に「自分は何者なのか」という問題が大切なのです。自分自身を知ること。自分についての真理を知れば、すべては解決するのです。それがブッダの集約的な教えです。
“Attānaṃ gaveseyyātha”
Vinayapiṭaka, Mahāvagga 1-14
「自己を探求せよ」
律蔵大品一ノ一四
この施本のデータ
- 何が平和を壊すのか?
- 争いの世界を乗り越えるブッダの智慧
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2003年5月