何が平和を壊すのか?
争いの世界を乗り越えるブッダの智慧
アルボムッレ・スマナサーラ長老
1 愛への依存は心の自由を奪う
親の刷り込みが真理の前に立ち塞がる
人間は真理さえ知れば平和で幸せになれるのに、真理を知るためには大きな障害、最初からなかなか乗り越えられない、いくつかのハンディがついています。
その第一に挙げられるのは親からの刷り込みです。ほとんどすべての人間にとって、生まれて最初に信じる存在は両親です。何も概念を持っていない真っ白い頭で生まれた赤ちゃんは、価値観、善悪判断、生き方、その他諸々のことを、親のものをそのままコピーします。それを消すことはほとんど不可能に近いのです。
私たちは今、自由に独立して生きていると偉そうに思っていますが、それは勘違いです。人格や生き方の基本的なガイドラインはすべて両親が作っています。あとで学校や社会からいろいろなものを学びますが、すべてこのガイドラインの上で成り立っている。つまり何を勉強しても、両親が作ったガイドラインに合わなければ、私たちはそれを全部捨てる。逆に合っているものなら、さっさと取り入れるのです。
どうにも避けられない両親からの刷り込みは、私たちが真理を知ろうとする時、大きなハンディになるのです。これをハンディと言うと、親たちが「私たちは自分の子供たちを変な方向へ育てようとしているわけではないぞ」と腹を立てるかもしれません。では逆に聞きますが、親たるあなたは真理を知っていますか? 真理を知った上で子供を育てていますか? 全くそうではないでしょう。もし、親が神様のごとく完全ならば、刷り込みがあっても問題ありません。しかし、どんな親でもそんな自信は持っていないのです。
よく、親が言うことに逆らう子供たちがいます。それは、両親が言うことをどのように自分で評価しようか、自分の価値観をどのように作ろうかと、けっこう苦労している最中なのです。いくらか自分で考えて判断できるようになってくると、「親に逆らう」現象が起こる。つまり親に子供が逆らうというその時点で、親の言っていることが真理でないという証拠です。真理ならば反論は成り立ちませんから。
「愛」の探求者になると幸せが遠ざかる
私たちの生き方を注意深く観察してみましょう。私たちはいつでも様々なものを自分自身で判断して生きているように見えます。しかしその判断の基準とは、親に植え付けられたものだと発見できるでしょう。たとえば、夫婦仲良くずっと一緒にいる家族の子供と、離婚して育てられた子供では性格、価値観が違います。父親に育てられた子供と、母親一人に育てられた子供では判断の仕方、世界を見る見方は変わってしまう。それは人間である限りどうしようもありません。
なぜ私たちはそんなにも親を信じているのでしょうか? それは親の愛情ゆえです。わからないことがあれば親に聞くものだ、親が何か言ったらそれは信じるものだと子供のころは誰でも思っています。親は何の文句も言わず自分を守って、育ててくれることはよく知っています。親に愛情があるから、「親の言うことは聞くものだ」と、親に対する絶対的な権限が心に生じる。親の愛情は人の一生に関わる魔法なのです。
そこで次のポイント。私たちは愛情には非常に弱いということ。どんな状態の人でも愛情の前では負けてしまいます。人間が本当に期待しているのは、具体的に言えば、失った親の愛情なのです。赤ちゃんの頃に知ったこの味は忘れられない。一緒にいるだけでかなり心が落ち着いたし、親に守られているときは苦しみを知らなかったし、安心していられた。だから大人になればなるほど、失った愛情を求める。それが故に世の中でみな、「愛」という言葉を口にしているのです。
宗教世界になってくると、愛を謳わない宗教は見当たらない程です。愛の実践をしているかどうかは疑問ですが、みな愛のことを謳っています。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教、道教、それら殆どの宗教に、愛という言葉があるのです。
すべての人間が追い求めているものこそ、(神の愛情ではなく)この親の愛情なのです。友達を作って得ようとするのは、もう二度と親からもらえない愛情の変形バージョンです。だから、もの足りない。そこで結婚するでしょう。でも結婚してお互いに愛し合っても、どこかもの足りないのです。そこで宗教が答えを出そうとします。「愛は神にあり」と。つまり神にすがれと説くのですが、それで心の穴が消えますか? 親が亡くなっても神さえいれば大丈夫だと言い切れるでしょうか。とにかく、人間は失った親の愛をいつまででも探している。そのことを憶えておいてください。
自分が探し続ける、失った愛情は決して見つからないでしょう。たとえ変形バージョンであっても、他人から愛情、親しみを受けたら、砂漠の中で見つけたオアシスのように感じます。そこから離れたら自分には生きていられないとさえ思うのです。愛情を失いたくないという執着が、真理を発見しようとする人にとってはハンディになります。その執着は、人を「親の言うことを聞くものだ」という子供の頃の思考パターンに戻してしまうのです。それから愛情を与えた人の価値観に合うように、似せるようにと必死になります。そうなると他人の気持ちを気にする生き方になるし、客観的に物事を観察するよりも、人の判断をそのまま受け入れてしまう性格にもなります。他人からどんな愛情を受けたとしても、自分が探している愛情そのものではない。そこで人は(真理を探すのではなく、)死ぬまで愛情を探しまわるのです。喉の渇いた人が、塩水を飲むような羽目になるのです。
クエスチョンマークを付けたい「愛」
次に「愛は真理ですか」という問題が出てきます。愛さえあれば、幸福になりますか?もし愛が真理であるならば、異論も闘いもなくなり、心は完全に安らぎを得られるはずでしょうに。Truth is love というふうに言っている宗教もあります。
普通ですと、私たちは自分が愛している人々がそばにいると大変楽しい、悲しみがなくなってしまう、苦しみは吹き飛んでしまう、ということがよくあります。また、その人々とはケンカしませんね。邪魔をしたくない、迷惑もかけたくない、その人々に悲しんでほしくない、ということはある。その点からみると、愛は真理であるかのように見えます。
でもはっきり言いますが、愛は真理ではありません。愛さえあればすべての苦しみがなくなるのだといっても、それは成り立たないのです。前にも言ったように、真理とは誰にとっても当てはまるものです。地球は丸いのだったら、家で飼っている鶏にも丸いのです。真理を知らない鶏に限って地球は平らで、知っている人類にだけ地球は丸いということではないのです。地球には親の愛がなくても大丈夫という生命はいくらでもいます。卵を産みっぱなしで逃げてしまう習性を持った生命もたくさんいます。親の愛情がなくても、ちゃんとその動物たちは成長するのです。
このように親の愛は普遍的な真理にはなりません。哺乳類ぐらいになると必要でしょうし、人間にとってはかなり必要なものですが、すべての生命に当てはまるわけではないのです。ですから、「生命が幸福になるための真理は愛情である」とは、お釈迦さまの立場からは言えないのです。
ならば、人間の場合に限れば真理になるのでしょうか? なりません。愛情は人間にとって、必要不可欠かもしれません。しかし母親が赤ちゃんを愛するような種類の愛情はなかなか得難いものです。そんな愛情は二度と味わえません。若者は「あなたのためなら何でも……」と、時々口走るけれど、あれは真っ赤な嘘でしょう。赤ちゃんのときに受けた、あの愛情の代わりになるものは、いくら苦労して探しても恐らく得られないのです。
得られないもの、体験できないものを探してどうなるものでしょうか? ますます苦しくなるだけでしょう。ですから「真理を知ると平安になる」という立場では、愛情というものには、ちょっとクエスチョンマークを入れておいてほしいのです。愛情に「?」マークがあって悪いわけではないのです。苦しいというわけでもないのです。困ったことがあればすぐ何とかしてくれる人々、信頼できる人々が周囲にいればいるほど人生は楽になります。ただそれくらいのことなので、愛情は真理にはなりません。
この施本のデータ
- 何が平和を壊すのか?
- 争いの世界を乗り越えるブッダの智慧
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2003年5月