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何が平和を壊すのか?

争いの世界を乗り越えるブッダの智慧 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

4 争いの世界を乗り越えるブッダの智慧

智慧によってのみ、人は心の自由を獲得する

世の中で「繁栄する」という言葉がありますね。しかし人気・権力・財力などの世俗的な繁栄は、簡単に壊れてしまう、取るに足りないものです。では本当の繁栄とは一体何でしょうか。

Appamattikā esā, bhikkhave, vuddhi yadidaṃ bhogavuddhi.
Etadaggaṃ, bhikkhave, vuddhīnaṃ yadidaṃ paññāvuddhi.
Tasmātiha, bhikkhave, evaṃ sikkhitabbaṃ – ‘paññāvuddhiyā vaddhissāmā’ti.

Aṅguttaranikāya1-79

比丘達よ、財産などの繁栄はささやかなものである。
比丘達よ、智慧の繁栄は最高なものです。
したがって、智慧が栄えるようにと励むべきである。

増支部一集七九経

真理を知り尽くしたブッダは、智慧を育てて、智慧を充たすことこそが本当の繁栄だと、私たちに教えてくれるのです。たとえ全世界の権力を握ったとしても、地球の財産を四分の一ぐらい握ったとしても、それを置いてあっという間に死ななければなりません。財産、名誉、人気などは少々の失敗で全て消えてしまいます。世俗的な繁栄は「私は偉いのだ」という錯覚を起こす原因にもなる。また、他人に依存して獲得するものなので、それでは自立することもできない。ですから世の中で人が讃える繁栄は、小さな虫けらの繁栄のようなものです。正しい、最高たる繁栄は智慧の繁栄です。ブッダは「自分の愚かさを破るために、真理を知るために頑張れば、それこそ繁栄ですよ」と説きます。智慧の繁栄によってのみ、人は心の自由を得るのです。

◎人の堕落

私たちは世俗的な繁栄も、精神的な智慧の繁栄も簡単に見逃してしまいます。これは人の堕落というべきものです。ブッダは「人を徹底的に不幸にして、将来地獄にまで堕としてしまう堕落がたったひとつある」と説きます。それが放逸(pamāda)です。 

放逸とはわかりやすく言えば、怠けること。やらねばならぬことを後回しにする、その性格です。智慧のない人は、「後でもできるのではないか」と思って、何でも後回しします。しかし、後でできると思うのは勘違いなのです。何一つとして、後で行うことはできません。これから、その意味を理解してみましょう。

ものごとはずっと変化し続けています。私自身もずっと変化し続けているし、私が接する世界もずうっと変化し続けている。私はAという人格でいる。その時Xという問題に出会う。私はXを後回しにする。でも、私がAでいるのはほんの瞬間です。次々に変化して変化していきB、C、D、E、Fに変わってしまう。私がGになったところで、前のXという問題を解決しようとしても、今はXという問題はない。今あるのは別なYという問題かもしれません。もうXを解決することはできないのです。だから、やるべきときに、何もしなかったことになります。今の瞬間でやらなくてはいけないことを別な時間でやろうとしても、期待する効果は得られないのです。

面白い例で考えればおわかりになると思います。家に帰るあなたは、母親に「ただいま」と挨拶しなくてはいけない。それを後回しにして寝る時間になりました。そのとき、つい思い出して、「お母さん、ただいま。おやすみなさい」といっても、ただ笑われることになる。「馬を盗まれてから馬小屋に鍵を掛ける」という英語の諺も同じ意味です。
私自身も外の世界も絶えず変化していますから、その瞬間その瞬間で行うべきことを後回しにすることは「放逸」です。物事は変化しない、そのままで自分の気が向くまで待ってくれると思う愚かさは、放逸的な生き方を生み出すのです。

一般的に言われる「無常」と、お釈迦さまが説く「無常」は同じではありません。無常の真理とは、ものごとに関わる究極的な真理です。世間では気分次第で、外の世界で何か変わったら惜しいと思われるときに限って、「無常」と言います。ブッダは、「自分も他人もすべてのものが絶えず瞬間的に変化してゆく」というのです。私たちは二度と生きていられません。「一期一会」どころか、「一瞬一会」なのです。どんな問題にでも私たちは瞬間しか出会わない。だから瞬間の生き方で、必死にその瞬間、その瞬間で問題を解決できるようにする。いつでも目が覚めた状態、頭が冴えた状態が必要なのです。

放逸を止めることは私たちにも実行できます。仕事を後回しにしないとか、掃除洗濯を後回しにしないとか。ほんとうは後回しにするとかなり苦しいのです。いつもやらなくてはいけないことが脳裏に付きまとって落ち着かない。ストレスになる。後でやっても、もう締め切りですから。無常の真理は究極的な真理で、理解することで覚りという究極な幸福を得られます。そこまで行かなくても、日常生活の中でも、この後回しにする癖、「怠ること」を少々管理してみれば、幸福に生きられると思います。 

放逸しない、怠らないこととは、あまりにも神経質になって、何でも早く片付けたくなる気持ちではありません。それはただ「落ち着きがない」状態です。精神的な不安定は幸福ではありません。ですから、幸福に至る正しい精進、正しい不放逸は何か理解しておきましょう。

◎怠らないようで怠る人

「怠らないこと」とは、なすべきことをその場その場で整理整頓して解決することだ、と理解しても良いと思います。羨ましがるほど早く何でもやってしまう、瞬時にものごとを決めてしまう人もいますが、一概に「怠らない人」だと決めるのは難しいのです。ただの神経質、先は見えない、しっかりと仕事をこなすのが嫌で早く終わらせてホッとしたい人のことも、怠けていないように見えてしまう。

不放逸の意味を理解していただくために、お釈迦さまのもう一つの言葉を理解してみましょう。それは「強欲」マヒッチャター(mahiccatā)という言葉です。人間には生きるうえで色々なものが必要になります。そこで必然的にものを欲しがるのです。例えば喉が渇いたら水を欲しがります。それは自然ですから何の問題もありません。しかし将来のことを心配して、必要なものを余分に蓄積しようという心の働きがあるのです。後で使うために欲を出すと際限がないので、理性がおかしくなる。これがマヒッチャターという心の働きです。

この病気にかかった人は「とにかく集めよう、蓄積しよう」という気持になる。自分に必要かどうかではなく、「あれも欲しい、これも欲しい」という気持ちに突き動かされ、見るもの、考えられるもの何でもあれば、ありがたいと思ってしまいます。「私や家族に本当に必要なものは何か、何が役に立つのか」という大事な観察を全くしないのです。外の世界には、モノが無限にありますから、理性という安全ベルトが外れて人生は暴走することになります。マヒッチャターの人は朝も昼も夜も問わず金を儲けるために、権力を得るために、財産を増やすために必死であがくのです。
このような人は、全く怠けないでよく頑張る努力家に見えます。しかし、これは不放逸ではなく「精神的に異常」という状態です。マヒッチャターは誰でも簡単に罹りやすい病原体です。罹った人は操縦機能が失われた飛行機のようなもので、必ず墜落します。延いて言えば、不幸になる生き方は何であろうとも、それは立派な放逸なのです。

しかし実現できる要求なら、悪いと思わなくて結構です。例えばバイクが欲しいのだが二十万円足りないとする。それぐらいバイトの時間を延ばせば何とかなると思います。では実現できるなら、何にチャレンジしても良いのでしょうか? そのような発想も危険だと思います。実現できても、自分にとって必要か否かは必ずチェックするべきです。

お釈迦さまはまた言葉を変えて、同じ真理を語っています。もうひとつ、簡単な経典を紹介しましょう。「人が不幸になることが、ひとつあります。それは、善いことをしないで悪いことをすることです」。人は悪いことをすると、不幸のどん底に陥るという簡単で分かりやすい言葉です。
最高の幸せを味わいたければ、善を行って不善を止める。これも不放逸と同じ言葉です。なぜ善いことをすることが「不放逸」になるのでしょうか?

私たちは教えられなくても、尻を叩かれなくても、悪いこと、自分が不幸になることだけは簡単にやってしまいます。「勉強しなさい」と言わなくても勉強しないのに、「ゲームセンターで遊びなさい」と言う必要はないのです。心は本来怠け者で放逸漬けなのです。それで無理にでも、善いことをするために、幸福になるために、怠けを絶たなくてはならないのです。ですから、ブッダのこの簡単な言葉も不放逸の説明になります。

ブッダが教えた言葉は、一つ一つ完全に真理・幸福になる道を現しています。たくさんある経典の中で、一つの言葉でもよく理解して実行するならば、その人は確実に幸福になります。うまくいけば覚りを開くこともできるのです。現代の私たちにあまり理解できない表現が含まれている経典もありますが、それは、実践する人には決して障りにはなりません。よく理解できる、十分納得できる言葉を一つでも憶えて実行すればよいのです。

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この施本のデータ

何が平和を壊すのか?
争いの世界を乗り越えるブッダの智慧 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2003年5月