施本文庫

お釈迦様のお見舞い

気づきと正知による覚りへの道  

アルボムッレ・スマナサーラ長老

7.無執着

So sukhañce vedanaṃ vedayati,sā aniccāti pajānāti,anajjhositāti pajānāti,anabhinanditāti pajānāti;
dukkhañce vedanaṃ vedayati,…pe…
adukkhamasukhañce vedanaṃ vedayati,sā aniccāti pajānāti,anajjhositāti pajānāti, anabhinanditāti pajānāti.

彼が、もし、楽の感覚を感じたら、それは無常であると知っています、それに入り込んではならないと知っています、喜んではならないと知っています。
もし、苦の感覚を感じたら……略……。
もし、苦でもなく楽でもない感覚を感じたら、それは無常であると知っています、それに入り込んではならないと知っています、喜んではならないと知っています。

◆冥想の手引 感覚に入り込まない

その比丘は、楽な感覚が生まれた場合はそれが無常であると知って、その感覚に入り込んではならない、その気分に浸ってはならないと知っています。喜んではならないと知っています。苦しみの感覚が生まれたら、それは無常であると知って、その感覚に入り込んではならない、喜んではならないと知っています。苦しみでもなく楽でもない感覚が生まれても同じように、入り込んではならない、喜んではならないと知っています。

So sukhañce vedanaṃ vedayati, visaññutto naṃ vedayati;
dukkhañce vedanaṃ vedayati, visaññutto naṃ vedayati;
adukkhamasukhañce vedanaṃ vedayati,visaññutto naṃ vedayati.

彼が、もし、楽の感覚を感じたら、捉われることなく離れた無執着の気分でその(感覚)を感じます。
もし、苦の感覚を感じたら、捉われることなく離れた無執着の気分でその感覚を感じます。
もし、苦でもなく楽でもない感覚を感じたら、捉われることなく離れた無執着の気分でその感覚を感じます。

◆冥想の手引 離れた気分で感覚を味わう

その比丘は、楽な感覚が生まれると、離れたこころで、無執着の気分で、その楽な感覚を味わいます。苦の感覚が生まれたら、その比丘が離れた気分で、無執着の気分で、その感覚を味わいます。苦でもなく楽でもない感覚が生まれても、何にも囚われることなく離れた気分で、無執着の気分で、その苦でもなく楽でもない感覚を味わいます。
実際に感覚があるのだから、味わうしかないのです。比丘はそのように、生まれた感覚を離れたこころ、無執着の気分で味わうのです。

So kāyapariyantikaṃ vedanaṃ vedayamāno kāyapariyantikaṃ vedanaṃ vedayāmī ti pajānāti, jīvitapariyantikaṃ vedanaṃ vedayamāno jīvitapariyantikaṃ vedanaṃ vedayāmī ti pajānāti.
Kāyassa bhedā uddhaṃ jīvitapariyādānā idheva sabbavedayitāni anabhinanditāni sītībhavissantī ti pajānāti.

彼は、身体に依存している(三種類の)感覚を感じていると、「私は、身体に依存している(三種類の)感覚を感じている(身体だけに限った感覚を感じている)」と知ります。
生きている間続く(三種類の)感覚を感じていると、「私は、生きている間続く(三種類の)感覚を感じている(命がある限りの死ぬまでの感覚を感じている)」と知ります。
身体が壊れたあとは、命が尽きて終わることから(感覚を作ることもないと知って)、「まさに、この世で(生きている間で)、感じるものすべてを喜ばなくなり、冷静に落ち着いている」と知ります。

◆冥想の手引 解脱を目指す

比丘は、身体に依存している三種類の感覚を「身体だけに限った感覚だ」と知ります。たとえば空腹感がある場合は、身体に限ったものでしょう。だから身体に何か食べ物を入れてしまえば、その空腹感は消えてしまいます。
生きている間続く感覚の場合は、「これは死ぬまでだ」と知ります。無常だから入り込む必要はない、たいしたことではないとわかるのです。

転んで足の骨を折ってすごく痛くなったとしても、「身体があるから痛くなったのだ、身体が無常だから、この骨折の痛みも無常だ」と知るのです。身体のことだから無常です、と落ち着いている。あるいはガンとか何かひどい病気になっても、「これは死ぬまでのことだから、そんなに気にすることはない。死んだら終わります」という、ものすごく明るいアプローチでいるのです。病に倒れて、どうしよう、どうしようと途方に暮れて悩んだり、落ち込んだりすることはありません。

ある比丘が病気になって末期状態で倒れて苦しんでいると、お釈迦様が訪ねて「調子はどうですか、楽でしょうか」と訊いたのです。比丘は「楽などころではありません、どんどん苦しくなります」と答える。お釈迦様は「そうですね。これは、死ぬまでの間の苦しみですよ。無常たる身体から生まれる苦しみですからね、無常でしょう。悩むほどたいしたことではないよ」と、無執着の精神の素晴らしさを示したのです。そこでその比丘は、「身体が壊れてからは、私はすべての感覚から離れてやるぞ」と思いました。それは涅槃・解脱を目指すということです。

このように、涅槃・解脱に達するためのポイントは、「感覚」なのです。だからヴィパッサナー冥想では、最初から感覚を観察させるのです。「感覚を実況しなさい」と言っているのです。お釈迦様の言葉はそうなっているのです。涅槃・解脱を目指す人は、感覚を実況するしかないのです。なぜならば、涅槃・解脱というのは、感覚に対する執着から完全に離れることなのです。

その比丘は、身体が壊れたらもう二度と感覚は作らないということで、この世で、生きている間で、感じるものすべてに対して喜ばないようにする。執着しないようにする。クールに冷静になるのです。感じるものに対して捉われるとろくなことはない、無常たる感覚はどうということはないと知って、落ち着いているのです。

たとえガンになって末期状態になっても、呼吸もできないようなひどい状態でも、「どうということはない、死ぬまでのことでしょう。これはみるみるうちに変化しているんだよ」と、クールにいる。どんな感覚に対しても、苦しみだけではなくて、楽な感覚に対しても、「たいしたことはないんだ」と、すごく冷静にいるのですね。それが「覚った」ということになります。感覚に対して執着を捨てたら、それが覚りなのです。

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この施本のデータ

お釈迦様のお見舞い
気づきと正知による覚りへの道  
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2008年5月