施本文庫

お釈迦様のお見舞い

気づきと正知による覚りへの道  

アルボムッレ・スマナサーラ長老

8.覚り 

Seyyathāpi,bhikkhave,telañca paṭicca vaṭṭiñca paṭicca telappadīpo jhāyeyya,tasseva ca vaṭṭiyā ca pariyādānā anāhāro nibbāyeyya;
evameva kho,bhikkhave,bhikkhu kāyapariyantikaṃ vedanaṃ vedayamāno kāyapariyantikaṃ vedanaṃ vediyāmī ti pajānāti.
Jīvitapariyantikaṃ vedanaṃ vedayamāno jīvitapariyantikaṃ vedanaṃ vedayāmī ti pajānāti.
Kāyassa bhedā uddhaṃ jīvitapariyādānā idheva sabbavedayitāni anabhinanditāni sītībhavissantī ti pajānātī ti.

比丘たちよ、たとえばまた、油を原因にして、さらには、燈芯を(原因にして)、灯りの炎が燃えるのです。
まさに、その(油)と燈芯が尽きてしまうと、原因がなくなり灯りが消えるのです。
比丘たちよ、まさに、そのように、比丘は、身体に依存している(三種類の)感覚を感じていると、「私は、身体に依存している(三種類の)感覚を感じている(身体だけに限った感覚を感じている)」と知ります。
生きている間続く(三種類の)感覚を感じていると、「私は、生きている間続く(三種類の)感覚を感じている(命がある限りの死ぬまでの感覚を感じている)」と知ります。
身体が壊れたあとは、命が尽きて終わることから(感覚を作ることもないと知って)、「まさに、この世で(生きている間で)、感じるものすべてに喜ばなくなり、冷静に落ち着いている」と知ります――と。 

◆冥想の手引 感覚に対する無執着 

最後に、覚った比丘の状態を説明します。 

昔からインドには、油の入った器に芯を入れて火をつける灯明があります。布で作った芯に火をつけると油が上がってきて、炎が現れるのです。だからその灯りは、油が消えてもなくなるし、芯が消えてもなくなるのです。そんなに困らなくても、そのうち消えますよと。原因があって現れたものだから、原因がなくなれば消えるしかないのです。 

覚りに達した比丘は、身体中に痛みがあっても、「まぁ、身体があるんだから仕方ない」。身体中楽しみがあっても、「身体があるんだから、べつに……」。死ぬほどの苦があっても、「まぁ、そんなの、死ぬまでのことですよ」という態度でいるのです。生きている間はどうせ感覚があるのだから、一切の感覚に対して無執着状態を作ろうではないかと。 

ですから解脱というのは、すごく具体的なことなのです。私たちにはずーっと感覚があるでしょう。その感覚に対する無執着なのです。感覚が生まれたら、どうせ本人はその正体を知っていますよ、ということで終わりです。 

これは病気になった人への説法なのですが、「病気になってもオタオタしないで、病気を言い訳にしないで、早く覚りなさい」という話になっているのですね。だから仏教には病気を治すという話がないのです。普通の宗教とはまったくアプローチが違うのです。 

「病気を治してあげますよ」という宗教は何を言っているのでしょうか? 病気には、治る病気もあるし、治らない病気もあるというのに。 

私たちは年を取ると心臓が弱くなるでしょう。それはどうやって治りますか? 肺や腎臓が弱くなるでしょう。血管も弱くなるでしょう。身体にどんどん脂肪が溜まっていくでしょう。溜まったものは身体の中で腐ってしまうでしょう。これはどうやって避けられますか? 二十歳の頃の筋肉細胞を、どうやって保っておくことができますか? そんなことは不可能でしょう。細胞は壊れて、新しい細胞が生まれなくてはいけないのです。そうやってどんどん変わって、細胞は年を取っていくのです。これはどうしようもないのです。 

だから病気を治すといった時点で、その宗教はもうインチキに決まっていますから。 

第一、治しても何の意味もないのです。死んだ人を生き返らせてあげるなどという、世の人が喜ぶ奇跡も、意味がありません。だってせっかく生き返らせてあげても、また死んでしまいますからね。話は本当ではないと思いますが、本当だとしても馬鹿げているのです。結局、ガンを超能力で治してあげても無駄なのです。結局、その人だって年を取って、老いさらばえて、死ぬのですから。 

お釈迦様の唯一のアドバイスは、「こころを清らかにすること」なのです。だから、テーラワーダ仏教の国々では楽なのですよ。病気になれば病院にも行くし、お経をあげたりもするけれど、信者さんはこれで病気が治るとは、ほとんど思っていない。ただ、「よい気分でいたいんだ、清らかなこころでいたいんだ」と思っているのです。だから私たちがお経をあげて祝福して、信者さんが翌日死んでしまっても、誰も文句を言いません。逆に、「きのう来てもらってよかった。今日来てもらうようだったら、間に合わずに死んでしまうところだった」と、ものすごく明るく人生を見るのです。 

ですから病気になったらどうすべきか、という問いへの答えが、この経典にあるのです。 

1.感覚を観察しなさい。 

2.感覚に囚われないようにしてください。 

治る病気だったら、早く治りますよ。どうしても治らない病気であっても、ちゃんと釈尊のアドバイスを実践すれば、その人が解脱に達する可能性は大いにあります。「この感覚は二度とごめんだ」ということになるのですから。お釈迦様は、不治の病で倒れた人にも、せっかく人間に生まれたのだから、その人生を大成功に達して終えられるようにしてあげているのです。 

この経典で勉強するポイントは、 

1.正知はどのように育てるのか、よく理解すること。 

それは日常生活で、しっかりと知って行うことです。たまねぎを切るときでも、お手洗いに行くときでもちゃんと知って行うことです。妄想ばっかりしているのではなくて、ちゃんと知って行うと、日常生活はしっかり締まってスマートになります。ものごとをよく理解できるようになってくるのです。 

2.サティの実践。 

3.感覚に囚われない。 

苦しみはいやだと思ってしまうと、それは怒りです。楽しみは気分がいいと思って入り込んでしまうと、それは欲です。だから楽しい感覚を目指してヴィパッサナー実践することは、自粛したほうがよいのです。楽しくなろうとも、苦しくなろうとも、不苦不楽であろうとも、それは「感覚」であって、無常なのです。ひっかかってはいけません。一切の感覚に対して無執着になろうという気持ちで、ブッダの説かれた修行方法を実践すれば、解脱という大果を得られることになるのです。 

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この施本のデータ

お釈迦様のお見舞い
気づきと正知による覚りへの道  
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2008年5月