施本文庫

お釈迦様のお見舞い

気づきと正知による覚りへの道  

アルボムッレ・スマナサーラ長老

◆冥想の手引 ①身随観 kāyānupassanā

「身において身を観つづける」身随観は、身体の動きを観察することです。
私たちは自分の身体のことを、変わらないで一定しているものだと思っています。「いいえ、違います」と言いたくなる気持ちもわかりますが、私たちは心底、身体は変わらない実体であると思っているのです。それが証拠に、身体に変化が起きると困ったり悩んだりするでしょう?「身体は変わるものだ」と本当にわかっているなら、そんな必要はないはずです。病気になっても、衰えていっても、気にしないはずです。老いることを必死で止めようとはしないはずです。

医学を学ぶ人々も身体のことを明確に観察しますが、誰も覚りには達しません。それはこころの汚れがそのままだからです。
なぜ医学的に身体を観察しても、こころが清らかにならないのでしょうか。
医学を学ぶ人々は、細胞一個一個を一貫性のある個体として見ています。本当は細胞一個を見ても、変化していることはわかるはずなのですが、彼らは肝心の変化そのものは研究対象にしないのです。だから身体を観察しても、こころが清らかになることはないのです。

身随観では、身体の動きを観察します。実践は誰にでもできるとてもシンプルな方法で始まります。一つの例で説明しましょう。
人が手を上げることにする。ゆっくり手を上げながら、その時現れる「感覚の変化」を確認するのです。さまざまな変化が起こらない限り、身体は動かないのです。
固定概念で頭が固くなっている人は、「こんな観察は面白くない、何にもならない」と勘違いします。あるいは「手を上げるくらいはよく知っている」と思うかもしれません。
しかしそうではないのです。ひとコマずつゆっくり手を上げて見ると、この一つ一つの動作が一回きりのものであると発見できるのです。まったく同じ動作は二回起こりません。身体のシンプルな動きさえも、生まれてはじめて行う動作だとわかるのです。

身体には、べつに複雑な動きなんかあるわけではないのです。身体の動き・細胞の動きは単純です。「膨らみ」か「縮み」か、です。それを発見しない人は、身体が理解不可能なほど複雑な機能を持っているのだと錯覚を引き起こしてしまうのですが、詳細に観察すると、身体の動きはとてもシンプルだとわかるのです。これを発見すると、身体に対するさまざまな誤解、強烈な執着、限りのない期待が薄れていきます。

いろんな観察方法が経典に説かれています。心臓や肝臓などの身体の部品を観察できる人もいます。地・水・火・風で観察することもできるし、ただ歩いたり坐ったりを観察することもできる。起きたり、ご飯を食べたり、飲んだり、歯を磨いたり、着替えたり、そういう日常のことを観察することもできるのです。
いずれにしても、ロウソクの炎のように、ずーっと流れて変わっていく。だから、現在を観るために必死で追っていかなくてはいけないのです。観ているのは現在の動きだけですけど、必死で追っていかなくてはいけない。

それさえもできない人間が、過去のことを考えたり、将来のことを考えたりするのがいかに無駄なことか。私たちは、現在さえもろくに知ることはできない無能な状態でいるのです。
現在さえも観察するのは至難のわざなのに、どうして過去のことや将来のことを考えられるというのでしょうか?
私たちが知っていると思っている過去も事実ではないし、将来も事実ではないのです。
過去は「実際に起きたできごと」なので、考えられるはずだと思うかもしれません。
でも、過去が現在であったときは観ていなかったのです。そのときは知らなかったのです。その知らなかったことを、いま頃どうやって知るのでしょうか。自分がぐっすり深い眠りに入っていた時に起きた出来事を、知っているのだと言い張るのは愚かです。過去に引っかかることは、それほど馬鹿げた行為なのです。

だから理性のある人は、いまの瞬間の身体の変化を観察するのです。それにしても、相当な集中力がないと観察できません。変化があまりにも速すぎるので、それを追ってみようとすると、頭からきれいに妄想がなくなってしまうのです。
このようにして事実無根の妄想概念からこころを解放することで、智慧が現れるのです。この偉大なる結果を得るために必要なサティの実践は、まず身体の動きから始まります。それがパーリ語のkāyānupasssanā(カーヤーヌパッサナー)身随観です。

そういうわけで、「随観」というのは単純な言葉ではなく、「瞬間的に起こる変化を追って観察する」という意味になります。anuとpassatiというその二つの言葉に「無常」の真理が入っているのです。anuは「起こる現象の変化を追う」という意味で使う接頭語です。映画を観ている途中で目を逸らすと、その間はスクリーンの映像が飛んでしまって見えないでしょう。anupassatiであるならば、ちゃんと集中してスクリーンを見なくてはいけない。なぜ集中力が必要かというと、ものごとの変化が、瞬間瞬間、起こるからです。無常だからこそ、集中力が必要になるのです。

◇煩悩を炙る Ātāpī

Ātāpī(アーターピー)という言葉の語源には「傷める、炙る」という意味があります。シンプルな意味は、「煩悩を抑えて現れないようにする」です。何を炙るのかというと、煩悩を炙ってしまうのです。
とはいえ修行者に「煩悩を炙ってやるぞ」と思う余裕はありません。ずーっと集中して身体の変化をサティで追っていくから大変忙しいのです。この大変な努力によって煩悩が炙られて、煩悩が現れないのです。

煩悩は、妄想しなければ、現実離れしなければ、データを捏造しなければ現れません。ですから私たちにある千五百の煩悩は、すべて捏造した結果なのです。
煩悩がそれぞれの人のこころに勝手に生まれるので、怒りっぽい人もいるし、欲張りもいるし、すごく暗い人もいる。意地が悪い人もいるし、優しい言葉で喋るけれど性格は最悪な人もいる。見る限り乱暴なようですごく優しい人もいる。人間というのはバラバラなのです。なぜそんなにバラバラなのかというと、それぞれの人が勝手な捏造をして、主観の世界を作るからです。

たとえば有名な日本庭園に観光しに来た人が、「なんと美しい庭園か」と驚いてしまう。あまりにも感動して、こころ乱れて、ハラハラと涙まで流したりする。そんな時、私たちは大きな勘違いをしてしまいます。いわく、「この『美しい庭園』のせいで、私はいたく感動したのだ」と。つまり、「外の世界が私のこころを汚したのだ」と思ってしまうのです。

では、見た人のこころを汚したのは、本当に「目の前の庭園」なのでしょうか?
そうではないのです。外の世界は、何の悪いこともしません。その庭園は、まわりの鳥たちにも見えるし、庭を散歩する猫にも見えます。でも、彼らのこころには、「なんと美しい!」といった欲はおそらく生まれないでしょう。
しかし人間は庭園を見て、そのデータをこころの中で捏造して、「美しい庭園だ」という妄想概念を作ってしまいます。この作業によって、欲という煩悩が生まれるのです。欲の煩悩でこころを揺さぶって、汚してしまった犯人は、庭園ではありません。欲の煩悩の被害者である、庭園を見た人間なのです。ありえないと思うかもしれませんが、実は「被害者が犯人」なのです。

私たちが執着に陥って生活する喜怒哀楽の世界は、捏造の結果です。捏造するためには、データを正しく取ると困ります。サンパジャーナ(正知)では困ります。だから私たちはまず誤知をして、それから煩悩という感情で感動するのです。それが私たちの普通の認識パターンです。
認識するたびに、私たちのこころは汚れているのです。そのうえ大事な時間の大半は、過去の幻覚に生きることや、将来の夢の中で生きることに費やしているのです。これが私たちの日常のパターンです。

このパターンにサティを入れてしまうと、こころが汚れるシステムは機能しなくなります。だから修行者は最初に苦しみを感じることになりますが、それは本当の苦しみではありません。自分のこころが感動したくて、感情を作りたくて、妄想したくて、煩悩で汚れたくてウズウズしているのに、できなくなっている状態です。実況中継で頑張っているから、こころが否応なしに汚れなくなっているのです。それをātāpī、煩悩を炙っているというのです。学者の方々がātāpīを「苦行」と訳する場合もありますが、べつに仏教は苦行ではないのです。

◆冥想の手引 貪欲と憂い Abhijjhādomanassa 

正知をそなえ、気づきをそなえ、世界における貪欲と憂いを抑えて住みます。

次に正知と気づきをそなえて、vineyya lokeいくつか制御するのです。ヴィパッサナー冥想を始めたら、最初から、必ず制御しなければいけない項目があります。それはabhijjhādomanassaです。アビッジャーは「異常な欲」です。ドーマナッサは「憂い悲しみ」です。憂い悲しみは怒りの一種ですから、異常な欲と怒りを制御する、という意味になります。

「欲」といっても、食欲などは異常な欲には入りません。のどが渇いて水を飲みたくなった、という場合にも、異常という言葉は入りません。冥想すると、さまざまな音が耳に入ってうるさく感じることも怒りの一種ですが、異常というほどではありません。
異常な欲と異常な怒りというのは、すべて精神的な病気です。欲張ることも、憂い悲しみに陥ることも、妄想の結果なのです。だから妄想がなければ、精神的な病気は治るのです。

そういうことで、身体のことを追って観察します。観察することで、こころの煩悩をジリジリと炙ってしまいます。自分の妄想パターンを炙っているような感じで、ちょっと厳しく感じるかもしれません。同時に、異常な欲と憂い悲しみが、その時点で機能しないことになるのです。この二つの精神的な病気を一時的に抑えていくのです。それで、やがてこころは健康になります。

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お釈迦様のお見舞い
気づきと正知による覚りへの道  
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2008年5月