怒りの無条件降伏
中部経典「ノコギリのたとえ」を読む
アルボムッレ・スマナサーラ長老
付録 中部経典第二十一 『ノコギリのたとえ』
――Kakacūpama-sutta(Majjhima Nikāya 21)――
――このように、私は聞きました
あるとき、世尊は、サーヴァッティー市(舎衛城)のジェータ林にある、アナータピンディカ居士の僧院に住んでおられた。また、まさにそのころ、比丘モーリヤパッグナは、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いた。
比丘モーリヤパッグナが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いたとはこのようなことである。もし、比丘の誰かが、比丘モーリヤパッグナの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしようものなら、そのことで、比丘モーリヤパッグナは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもした。また、もし、比丘の誰かが、その比丘尼たちの目の前で、比丘モーリヤパッグナの批判を口にしようものなら、そのことで、その比丘尼たちは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもした。このように、比丘モーリヤパッグナは、比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いた。
そこで、或る比丘が世尊のところに近づいて行った。行って、世尊に礼拝して、一方に坐った。まさに、一方に坐ったその比丘は、世尊に、こう申し上げた。
「尊師、比丘モーリヤパッグナは、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)います。比丘モーリヤパッグナが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとはこのようなことです。もし、比丘の誰かが、比丘モーリヤパッグナの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしようものなら、そのことで、比丘モーリヤパッグナは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。また、もし、比丘の誰かが、その比丘尼たちの目の前で、比丘モーリヤパッグナの批判を口にしようものなら、そのことで、その比丘尼たちは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。このように、比丘モーリヤパッグナは、比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)います」
そこで、世尊は、或る比丘を呼ばれた。
「さあ、比丘よ、あなたは、私の言葉をもって、モーリヤパッグナ比丘を呼びなさい。『友、パッグナさん、師があなたを呼んでいます』」と。
「かしこまりました、尊師」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、比丘モーリヤパッグナのところに近づいて行った。行って、比丘モーリヤパッグナに、こう告げた。
「友、パッグナさん、師があなたを呼んでいます」
「わかりました、友よ」と、まさに、比丘モーリヤパッグナは、その比丘に答えて、世尊のところに近づいて行った。行って、世尊に礼拝して、一方に坐った。まさに、一方に坐った比丘モーリヤパッグナに、世尊は、こう告げた。
「本当ですか。聞くところによると、パッグナ、あなたは、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとのことです。聞くところによると、パッグナ、あなたが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとはこのようなことです。もし、比丘の誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしようものなら、そのことで、あなたは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。また、もし、比丘の誰かが、その比丘尼たちの目の前で、あなたの批判を口にしようものなら、そのことで、その比丘尼たちは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。聞くところによると、パッグナ、あなたが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとはこのようなことです」
「そのとおりです、尊師」
「パッグナ、あなたは、良家の子息として、信をもって家をはなれ、家なき出家者になったのではないですか」
「そのとおりです、尊師」
「パッグナ、良家の子息として、信をもって家をはなれ、家なき出家者になったあなたにとって、まさにこのことは、ふさわしいことではありません。すなわち、あなたが、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)、住むようなことです。
パッグナよ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしたとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、世俗的な諸々の意欲や考え方を、捨て去るべきなのです。
そこでまた、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。
パッグナよ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちに手でもって殴るとして、石でもって殴るとして、棒でもって殴るとして、刃物でもって殴るとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。
パッグナ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、あなたの批判を口にするとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、世俗的な諸々の意欲や考え方を、捨て去るべきなのです。そこでまた、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。
パッグナ、ですから、たとえ誰かが、あなたに手でもって殴るとして、石でもって殴るとして、棒でもって殴るとして、刃物でもって殴るとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません」
そこで、世尊は、比丘たちに話された。
「比丘たちよ、かつては、比丘たちが私の心を実に喜ばせたものでした。比丘たちよ、私は、今、比丘たちにこのように話します。『比丘たちよ、私は、まさに、一回の食事で過ごしています。比丘たちよ、私は、まさに、一回の食事で過ごすと、病いが少ないことを、災いが少ないことを、起居が軽快であることを、体力があることを、居住が快適であることを、知ります。比丘たちよ、ここに、あなたたちもまた、一回の食事で過ごしなさい。比丘たちよ、あなたたちもまた、まさに、一回の食事で過ごして、病いが少ないことを、災いが少ないことを、起居が軽快であることを、体力があることを、居住が快適であることを知りなさい』と。比丘たちよ、(しかし)私には、かつての比丘たちに対して、教え諭すべき事はなかったのです。比丘たちよ、私には、その比丘たちに対して、気づきを起こすだけの事ですんだのです。
比丘たちよ、また、たとえば、平坦地にある広い十字路に、駿馬がつけられている車が用意され、鞭が置かれ、備え付けられている、とします。そこで、熟練の調教師である馬の御者がそれに乗って、左手に手綱を持ち、右手に鞭を持って、好きな所に、好きな様に、行かせもし、戻らせたりもするのです。比丘たちよ、ちょうどこのように、まさに、私には、かつての比丘たちに対して、教え諭すべき事はありませんでした。比丘たちよ、私には、かつての比丘たちに対しては、気づきを起こすだけの事ですんだのです。
比丘たちよ、ですから、あなたたちは、不善を捨てなさい。諸々の善法において励みなさい。まさしくこのように、あなたたちも、この法と律について、大きく成長しなさい。
比丘たちよ、また、たとえば、村か町の近くに大きなサーラ樹の林があり、そして、それをシダの茂みが覆っているとします。ちょうど誰か、(サーラ樹の)成長を想う、利益を想う、無事を想う人が現れるとします。彼は、曲がり、養分を無駄に吸い取る枝を刈り払い、外に運び出すでしょう。林内をきれいに整備するでしょう。また、まっすぐで素性のよいサーラ樹の枝を良く世話するでしょう。
比丘たちよ、まさしくこのように、このサーラ樹の林は、後に、大きく成長するでしょう。比丘たちよ、ちょうどこのように、まさに、あなたたちは、不善を捨てなさい。熱心に、諸々の善の法をなしなさい。まさしくこのように、あなたたちも、この法と律について、大きく成長しなさい。
比丘たちよ、むかし、このサーヴァッティー市に、ヴェーデーヒカーという名の貴婦人がいました。比丘たちよ、貴婦人ヴェーデーヒカーには、このような、善き評判の声が上がっていました。すなわち、『貴婦人ヴェーデーヒカーは、おだやかである。貴婦人ヴェーデーヒカーは、つつましやかである。貴婦人ヴェーデーヒカーは、ものしずかである』と。比丘たちよ、また、貴婦人ヴェーデーヒカーには、カーリーという名の、有能で、働き者で、仕事を上手にこなす、女性奴隷がいました。
比丘たちよ、そこで、女性奴隷カーリーは、こう思いました。――私の女主人には、このような、善き評判の声が上がっている。すなわち、『貴婦人ヴェーデーヒカーは、おだやかである。貴婦人ヴェーデーヒカーは、つつましやかである。貴婦人ヴェーデーヒカーは、ものしずかである』と。いったい、どうなのだろう。私の女主人は、まさに、内に怒りが有りながらも、あらわにしないのだろうか。それとも、(怒りが)無いのだろうか。それとも、私が仕事を上手にこなしているので、私の女主人は、内に怒りが有りながらも、あらわにしないのだろうか。(怒りが)無いわけはないだろう。私は、女主人を試してみよう――と。
比丘たちよ、そこで、女性奴隷カーリーは、遅く起きてみました。比丘たちよ、そこで、貴婦人ヴェーデーヒカーは、女性奴隷カーリーに、こう言いました。『これ、カーリーよ』『何でしょうか。ご主人様』『いったい、どういうことなの。遅く起きてくるとは』『ご主人様、何でもありません』『性悪の奴隷め。何もないのに遅く起きるとは』と。彼女は怒り、機嫌を悪くし、嫌な顔をしました。比丘たちよ、そこで、女性奴隷カーリーは、こう思いました。――私の女主人は、怒りがないわけではなく、まさに、内に怒りが有りながらも、あらわにしないのだ。私が仕事を上手にこなしているので、私の女主人は、怒りがないわけではなく、内に怒りが有りながらも、あらわにしないのだ。さらに、私は、女主人を試してみよう――と。
比丘たちよ、そこで、女性奴隷カーリーは、さらに遅く起きてみました。比丘たちよ、そこで、貴婦人ヴェーデーヒカーは、女性奴隷カーリーに、こう言いました。『これ、カーリーよ』『何でしょうか。ご主人様』『いったい、どういうことなの。遅く起きてくるとは』『ご主人様、何でもありません』『性悪の奴隷め。何もないのに遅く起きるとは』と。彼女は怒り、機嫌を悪くし、不快な言葉を投げつけました。比丘たちよ、そこで、女性奴隷カーリーは、こう思いました。――私の女主人は、怒りがないわけではなく、まさに、内に怒りが有りながらも、あらわにしないのだ。私が仕事を上手にこなしているので、私の女主人は、怒りがないわけではなく、内に怒りが有りながらも、あらわにしないのだ。さらに、私は、女主人を試してみよう――と。
比丘たちよ、そこで、女性奴隷カーリーは、さらに遅く起きてみました。比丘たちよ、そこで、貴婦人ヴェーデーヒカーは、女性奴隷カーリーに、こう言いました。『これ、カーリーよ』『何でしょうか。ご主人様』『いったい、どういうことなの。遅く起きてくるとは』『ご主人様、何でもありません』『性悪の奴隷め。何もないのに遅く起きるとは』と。彼女は怒り、機嫌を悪くし、かんぬきの棒を持って、頭を殴りました。頭が割れてしまいました。
比丘たちよ、そこで、女性奴隷カーリーは、頭を割られ、血を流しながら、周囲の者たちに喚き散らしました。『みなさん、おだやかな方のしたことを見てください。みなさん、つつましやかな方のしたことを見てください。みなさん、ものしずかな方のしたことを見てください。いったいどうして、たった一人の女奴隷に、遅く起きたと、怒り、機嫌を悪くし、かんぬきの棒を持って、頭を殴り、頭を割るのでしょうか』と。
比丘たちよ、そこで、貴婦人ヴェーデーヒカーには、後から、このような、悪しき評判の声が上がりました。すなわち、『貴婦人ヴェーデーヒカーは、おそろしい。貴婦人ヴェーデーヒカーは、つつましやかではない。貴婦人ヴェーデーヒカーは、ものしずかではない』と。
比丘たちよ、ちょうどこのように、ここに、或る比丘は、諸々の不快な言葉に遭遇しないかぎり、おだやか中おだやかで、つつましやか中つつましやかで、ものしずか中ものしずかでいるのです。比丘たちよ、しかしながら、諸々の不快な言葉が、その比丘に遭遇するとき、まさにそこでこそ、その比丘は『おだやかで、つつましやかで、ものしずかである』と、知るべきなのです。
比丘たちよ、私は、衣食住薬、生活必需品を得るために素直になっていることで、(真の)素直だと説きません。それは、なぜでしょう。比丘たちよ、その比丘は、衣食住薬、生活必需品を得られないことになるならば、素直にならず、素直さに至らないのです。比丘たちよ、しかしながら、まさに、真理を尊び、真理を重んじ、真理を敬い、素直になり、素直さに至るのであるならば、私は、彼を、『素直である』と説きます。比丘たちよ、ですから、――私たちは、真理を尊び、真理を重んじ、真理を敬い、素直になろう、素直さに至る者となろう――と、比丘たちよ、あなたたちは、まさしくこのように、戒めねばなりません。
比丘たちよ、他人に話しかけるときは、使用する言葉の用途が五つあります。すなわち、――時機に(語る)、もしくは、非時機に(語る)。根拠に基づいて(語る)、もしくは、虚実を(語る)。柔和に(語る)、もしくは、粗暴に(語る)。有益に(語る)、もしくは、無益に(語る)。慈しみの心で(語る)、もしくは、怒りで(語る)――です。
比丘たちよ、他人は、時機に、もしくは、非時機に、語るのです。他人は、根拠に基づいて、もしくは、虚実を、語るのです。他人は、柔和に、もしくは、粗暴に、語るのです。他人は、有益に、もしくは、無益に、語るのです。他人は、慈しみの心で、もしくは、怒りで、語るのです。
比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。すなわち、――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。また、その人とその言葉に対しても、慈しみの心を広げて生きます。また、すべての世界に対して、増大した、増幅した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で、接して生きます――と。比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません。
比丘たちよ、また、たとえば、人が、鋤と籠を持って、やって来るとします。このように、彼は言うとします。『私は、この広い大地を、非地にしてやろう』と。彼は、次から次へと掘り返し、次から次へと撒き散らし、次から次へと唾を吐き、次から次へと尿をかけ、『おまえは、非地になれ。おまえは、非地になれ』と。
比丘たちよ、それについて、どう思いますか。はたして、その人は、この広い大地を、非地にしてしまうのでしょうか」と。
「そうではありません、尊師」
「それは、なぜでしょう」
「尊師、この広い大地は、深く、限りがないからです。それを非地にする(破壊する)のは、容易ではありません。ただ単に、その人は、疲労困憊してしまいます」
「比丘たちよ、ちょうどこのように、他人に話しかけるときは、使用する言葉の用途が五つあります。すなわち、――時機に(語る)、もしくは、非時機に(語る)。根拠に基づいて(語る)、もしくは、虚実を(語る)。柔和に(語る)、もしくは、粗暴に(語る)。有益に(語る)、もしくは、無益に(語る)。慈しみの心で(語る)、もしくは、怒りで(語る)――です。
比丘たちよ、他人は、時機に、もしくは、非時機に、語るのです。他人は、根拠に基づいて、もしくは、虚実を、語るのです。他人は、柔和に、もしくは、粗暴に、語るのです。他人は、有益に、もしくは、無益に、語るのです。他人は、慈しみの心で、もしくは、怒りで、語るのです。
比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。すなわち、――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。また、その人とその言葉に対しても、大地に等しい、増大した、増幅した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で接して生きていきます――と。比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません」
「比丘たちよ、また、たとえば、人が、赤か、黄か、青か、茜色の塗料を持って、やって来るとします。このように、彼は言うとします。『私は、この虚空に、絵を描いてやろう。絵が見えるようにしてやろう』と。
比丘たちよ、それについて、どう思いますか。はたして、その人は、この虚空に、絵を描いてしまうのでしょうか。絵が見えるようにしてしまうのでしょうか」
「尊師、そうではありません。なぜならば、この虚空は、形がなく、つかみどころがないからです。そこに、絵を描き、絵が見えるようにするのは、容易ではありません。ただ単に、その人は、疲労困憊してしまいます」
「比丘たちよ、ちょうどこのように、他人に話しかけるときは、使用する言葉の用途が五つあります。すなわち、――時機に(語る)、もしくは、非時機に(語る)。根拠に基づいて(語る)、もしくは、虚実を(語る)。柔和に(語る)、もしくは、粗暴に(語る)。有益に(語る)、もしくは、無益に(語る)。慈しみの心で(語る)、もしくは、怒りで(語る)――です。
比丘たちよ、他人は、時機に、もしくは、非時機に、語るのです。他人は、根拠に基づいて、もしくは、虚実を、語るのです。他人は、柔和に、もしくは、粗暴に、語るのです。他人は、有益に、もしくは、無益に、語るのです。他人は、慈しみの心で、もしくは、怒りで、語るのです。
比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。すなわち、――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。また、その人とその言葉に対しても、虚空に等しい、増大した、増幅した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で接して生きていきます――と。比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません。
比丘たちよ、また、たとえば、人が、火の点いた松明を持って、やって来るとします。このように、彼は言うとします。『私は、この、火の点いた松明で、ガンジス河を熱してやろう。沸騰させてやろう』と。
比丘たちよ、それについて、どう思いますか。はたして、その人は、火の点いた松明で、ガンジス河を熱してしまうのでしょうか。沸騰させてしまうのでしょうか」
「尊師、そうではありません、なぜならば、ガンジス河は、深く、無量だからです。火の点いた松明で熱し、沸騰させるのは、容易ではありません。ただ単に、その人は、疲労困憊してしまいます」
「比丘たちよ、ちょうどこのように、他人に話しかけるときは、使用する言葉の用途が五つあります。すなわち、――時機に(語る)、もしくは、非時機に(語る)。根拠に基づいて(語る)、もしくは、虚実を(語る)。柔和に(語る)、もしくは、粗暴に(語る)。有益に(語る)、もしくは、無益に(語る)。慈しみの心で(語る)、もしくは、怒りで(語る)――です。
比丘たちよ、他人は、時機に、もしくは、非時機に、語るのです。他人は、根拠に基づいて、もしくは、虚実を、語るのです。他人は、柔和に、もしくは、粗暴に、語るのです。他人は、有益に、もしくは、無益に、語るのです。他人は、慈しみの心で、もしくは、怒りで、語るのです。
比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。すなわち、――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。また、その人とその言葉に対しても、ガンジス河に等しい、増大した、増幅した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で接して生きていきます――と。比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません。
比丘たちよ、また、たとえば、柔らかい綿毛のようになめされ、よくなめされ、とてもよくなめされた、サラサラと音がしない、バラバラと音がしない、猫の皮があります。人が、木片か小石を持って、やって来るとします。このように、彼は言うとします。『私は、この、柔らかい綿毛のようになめされ、よくなめされ、とてもよくなめされた、サラサラと音がしない、バラバラと音がしない、猫の皮を、木片か小石で、サラサラと音をさせてやろう。バラバラと音をさせてやろう』と。
比丘たちよ、それについて、どう思いますか。はたして、その人は、その、柔らかい綿毛のようになめされ、よくなめされ、とてもよくなめされた、サラサラと音がしない、バラバラと音がしない、猫の皮を、木片か小石で、サラサラと音をさせてしまうのでしょうか。バラバラと音をさせてしまうのでしょうか」
「尊師、そうではありません、なぜならば、その猫の皮は、柔らかい綿毛のようになめされ、よくなめされ、とてもよくなめされ、サラサラと音がしないからです。バラバラと音がしないからです。木片か小石で、サラサラと音をさせ、バラバラと音をさせてしまうのは、容易ではありません。ただ単に、その人は、疲労困憊してしまいます」
「比丘たちよ、ちょうどこのように、他人に話しかけるときは、使用する言葉の用途が五つあります。すなわち、――時機に(語る)、もしくは、非時機に(語る)。根拠に基づいて(語る)、もしくは、虚実を(語る)。柔和に(語る)、もしくは、粗暴に(語る)。有益に(語る)、もしくは、無益に(語る)。慈しみの心で(語る)、もしくは、怒りで(語る)――です。
比丘たちよ、他人は、時機に、もしくは、非時機に、語るのです。他人は、根拠に基づいて、もしくは、虚実を、語るのです。他人は、柔和に、もしくは、粗暴に、語るのです。他人は、有益に、もしくは、無益に、語るのです。他人は、慈しみの心で、もしくは、怒りで、語るのです。
比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。すなわち、――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。また、その人とその言葉に対しても、猫の皮に等しい、増大した、増幅した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で接して生きていきます――と。比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません。
比丘たちよ、また、もし、凶悪な盗賊たちが、両側に柄のあるのこぎりで手足を切断しようとします。その時でさえも、心を汚す者であるならば、彼は、私の教えの実践者ではありません。
比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。すなわち、――私たちの心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私たちは発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私たちは生きるのだ――と。また、その人とその対象に対しても、すべての生命に対しても、増大した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で接して生きていきます――と。比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません。
比丘たちよ、そして、あなたたちは、この、のこぎりのたとえの教戒を、つねに思い出すのであれば、比丘たちよ、あなたたちは、耐え忍ぶことのできない、微細もしくは粗大な、言葉を見出せますか」
「尊師、見出せません」
「比丘たちよ、それ故に、この、のたとえの教戒を、つねに思い出しなさい。それは、長きにわたり、あなたたちの利益のため、安楽のためになるでしょう」
これが、世尊の話されたことです。感動したその比丘たちは、世尊の話されたことを歓喜したのである。
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- 怒りの無条件降伏
- 中部経典「ノコギリのたとえ」を読む
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2004年6月