施本文庫

怒りの無条件降伏

中部経典「ノコギリのたとえ」を読む 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「素直である」とは

比丘たちよ、私は、衣食住薬、生活必需品を得るために素直になっていることで、(真の)素直(suvaco)だと説きません。それは、なぜでしょう。

比丘たちよ、その比丘は、衣食住薬、生活必需品を得られないことになるならば、素直にならず、素直さに至らないのです。

比丘たちよ、しかしながら、まさに、真理を尊び、真理を重んじ、真理を敬い、素直になり、素直さに至るのであるならば、私は、彼を、『素直である』と説きます。
比丘たちよ、ですから、――私たちは、真理を尊び、真理を重んじ、真理を敬い、素直になろう、素直さに至る者となろう――と、比丘たちよ、あなたたちは、まさしくこのように、戒めねばなりません。

ここでお釈迦さまは、性格的に正直な生き方と偽善的な生き方を示して、明確に指導されるのです。ときどき、衣、食事、住む所、薬など、そういう必要なものをもらうために、すごく行儀よくふるまう比丘たちもいたでしょう。やはり信者さんたちも、見た目で判断して、素直そうなお坊さんにお布施してしまいます。お布施は自由ですから、別に誰にお布施してもかまいません。そうなると、どうしても自分が気に入ったお坊さんにお布施するということになります。お釈迦さまは、お布施をねらって素直そうに行儀よくふるまう比丘は認めないのです。修行が偽善的であっては、決して良い人間になるはずがないのです。そういう比丘は、お布施をもらえなければ混乱し、怒り、穏和ではなくなるでしょう。

《素直suvaco》とは、「きちんとよく躾られている」というような意味です。ただ「躾られている」というより「洗練されている」というような、とても良い意味の言葉なのです。直訳だけではこの意味はわかりにくいのです。直訳すると、su は「善い」、vaca は「言葉」で、《suvaco》は「言葉をかけられ易い」という意味になります。結局、躾というのは言葉でなされるものでしょう? 人にアドバイスや指導をしようとしても、相手が不機嫌な顔で怒りを表して反対するならば、頑固で聞く耳をもたないならば、躾は全くできません。その人に必要なことであろうとも、言いにくくなるのです。素直な人は、その反対です。他人のアドバイスをよく聞くのです。言われたとおりに自分を正すので、穏やかな気持ちでアドバイスしてあげることができるのです。suvacoの直訳、「言われ易い」だと、どういう意味かわからなくなります。ですから「素直」と訳したのです。

素直であることは、仏道においてたいへん大事なことです。俗世間においても、頑固で人の話を聞き入れない人々は、迷惑な存在です。仏道に入る人は、せっかく自分の性格を直そうとして入門するのです。指導を受けるくらいの謙虚さと柔軟性がなければ、入門しても何も得られないのです。最初は何から何まで教えてもらうことばかりです。それからもずっと、煩悩を完全に断って悟りを開くまで指導を受けるのです。ですから、仏道の成功は「素直」というひと言葉にかかっています。

ちなみに「頑固」はパーリ語でdubbacaといいます。suvacaのsu(良い)の代わりにdu(悪い)が入れ替わっているのです。「周りから何を言われても気にしないで頑固にがんばって幸福になる人もいるのではないか」と思われるかもしれません。それは、言葉の使い方が間違っています。誘惑に負けないしっかりした性格を「頑固」と誤解しているのです。
「頑固」というのは柔軟性がないことです。自分を変えようと全く思わないことです。感情のまま貫こうとする人です。頑固でいると、確実に不幸になります。「頑固さ」は悪です。同様に、「素直は善だといっても、素直だから他人にだまされて不幸になる人もいるのではないか」と思われるならば、その場合も言葉を間違って使っています。だまされたのは素直だからではなく、無知だからです。ものごとを理性的に判断しなかったからです。真の素直な性格は何の問題もない。素直になるために理解能力を捨てるなど、話にならないのです。素直さは「善」です。

仏道は性格を完成する世界ですので、素直であることは欠かせません。しかし、「素直」といっても、俗世間的なご褒美をねらった偽善的な素直さと、真理を重んじて行う真の素直さは区別しなければなりません。世俗の社会は損得の世界だから、素直か頑固かも損得論で決めてしまいます。人はいろんな理由で偽善的に素直になるのです。「何もわからないから、反対できないから、気が弱いから、相手が偉いから、相手が怖いから、利益を得るから、相手が喜ぶから」などの理由で素直になっても、一つも真の素直ではないのです。「偽善の素直さ」は仏道においては猛毒ですので、お釈迦さまはここでそれをピンポイントされているのです。

仏道に入った人が偽善的な素直さで行儀良く振る舞って穏やかな生き方をしても、必ず問題が起きるのです。信仰の篤い信者に恵まれて生活必需品に困ることなく楽に生活できるようになると、自分の生活水準を維持したくなります。そうなると、信者が喜ぶような、皆が感動するような生き方をしようとするのです。何かこれという悪いことをしたかというと何もしていないのですが、その比丘に心の成長がないことも確かなのです。彼は、お布施に恵まれずに不幸にならない限り心の汚れに気づくことはないでしょう。大きなお寺を任されて、その「偉い立場」を維持するために、行儀良く振る舞う場合もあります。これらのケースの場合は、比丘が出家の真の目的を忘れているのです。真の目的は解脱することなのに、「信者さんの心を喜ばすこと、またはお寺の維持管理をすること」を目的にしているのです。ブッダの教えと実践を重んじるどころか、それは二の次になるのです。「人が喜ぶならば何でもやる」ということになって、出家なのに、祈祷も占いも、他の世俗儀礼も行うことになるのです。そうなると、個人が破壊されるだけではなく、仏教そのものも堕落していくのです。

どんなお寺を任されても、どんなに裕福な信者に恵まれても、仏教の真の目的からは決して脱線してはいけないのです。それは、真理を重んじて、真理を敬って、真理のために素直になることです。真理というのは、ブッダの教えです。また、その真理を体験する仏道です。解脱をして苦しみを乗り越えることです。解脱するために素直に行儀良く生活する人は、真の素直な人です。その人は、お布施があってもなくても混乱しないのです。他人に尊敬されてもされなくても気にしないのです。ひたすら真理を目指して、解脱を目指して、努力するのです。そのために素直になるのです。ブッダのアドバイスに耳を傾けるのです。

五種の言葉への処方箋

比丘たちよ、他人に話しかけるときは、使用する言葉の用途が五つあります。すなわち、――時機に(語る)、もしくは、非時機に(語る)。根拠に基づいて(語る)、もしくは、虚実を(語る)。柔和に(語る)、もしくは、粗暴に(語る)。有益に(語る)、もしくは、無益に(語る)。慈しみの心で(語る)、もしくは、怒りで(語る)――です。

比丘たちよ、他人は、時機に、もしくは、非時機に、語るのです。他人は、根拠に基づいて、もしくは、虚実を、語るのです。他人は、柔和に、もしくは、粗暴に、語るのです。他人は、有益に、もしくは、無益に、語るのです。他人は、慈しみの心で、もしくは、怒りで、語るのです。


比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。

すなわち、――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。
また、その人とその言葉に対しても、慈しみの心を広げて生きます。また、すべての世界に対して、増大した、増幅した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で、接して生きます――と。
比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません。

これは「人から批判的なことを言われた時にどのように対応するべきか」についての説法です。お釈迦さまは、人が批判する言葉を五つのカテゴリーに分けておられます。人々が何かについて批判する時は、次の五つのどれかに入ります。

 一 言うべき時機に言う場合、言うべきではない時機に言う場合。
 二 実際に犯した罪について何かを言う場合、何も犯していないのに誤解して、あるいは罪を着せようとして何かを言う場合。
 三 優しい言葉で言う場合、乱暴な言葉で言う場合。
 四 言われる人のことを思って、躾をするつもりで、役に立つようにと言う場合、悩ませて不幸にするつもりで言う場合。
 五 慈しみの心で言う場合、怒りの感情で言う場合。

ひとつのカテゴリーには一対の事例があるので、全部で十種類の場合があります。
そういう十種類のいずれの場合でも、「人が優しくしゃべろうが、きつい言葉で批判しようが、言ってはいけないところで言ってはいけない時に非難しようが、まるっきり根拠のないことで非難しようが、我々は『怒ることなく心が動揺して感情に陥ることがないように』と自己を戒めなくてはならない。『私の心が変わらないように。私は悪い言葉だけはしゃべりません。何を言われても相手のことをいつでも心配します。慈しみの心で、怒りなく生活します』と、そういう生き方で生きてください」とおっしゃるのです。

お釈迦さまが五種に分けられたカテゴリーは当時の社会だけではなく、時代を超えて、いつの時代でも通用する真理です。「これは昔話だから私たちには関係ない」とは言えません。現代でも、私たちが何かを言われて腹が立つならば、相手の言葉はこの五種類のいずれかに入るのです。
そして私たちは今でも、自分が怒るための理由として、これらの条件を見事に使っているのです。「突然あんなことを言わなくてもいいでしょうに」「私は全く根拠がないことを言われたのですよ」「なんであんなに乱暴できつい言葉で言われないといけないのか」などと怒ったりけなしたりしています。
お釈迦さまは、そういういかなる場合でも怒ってはいけないとおっしゃるのです。そして、「自分を非難した相手に対しても慈しみの気持ちを広げてください。『この人はどうか幸せでありますように』と、相手に慈悲の瞑想をしてください」とおっしゃるのです。

普通は、人から非難されると、その人を敵視します。嫌な人になります。しかしその嫌な人に対してさえも、「私は怒りません、非難の言葉は発しません、この人もどうか幸せでありますように」と本気で慈悲の瞑想をするのです。そのようにする人は、すべての生命に、限りなく慈悲の瞑想ができるようになってしまうのですね。自分に対して面と向かって悪口を言う人に対して何の嫌な気持ちも持たずに慈悲の瞑想をするならば、その機会を上手に利用して、慈悲の瞑想を完成することができるのです。嫌な人に怒りが生まれなかったならば、慈悲の禅定に入ることはとても簡単なのです。なぜならば、その瞬間は、自と他の制限を乗り越えているのです。

そのように、自分が非難されたり侮辱されたりする時は、その機会を、心を育てるために生かすのです。わずかでもいやな気持ちを持たずに、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と、すべての世界(生命)に対して偉大なる慈悲の心を育てて慈悲を完成させるべきだと説かれているのです。

ここではお釈迦さまがズバリとピントを絞って丁寧に教えておられるのです。「あなたを誰かが批判しても、非難しても、いかなる場合でも怒ってはならない。 あなたが比丘であるならば、すぐその人に対して慈悲の瞑想をしなさい。本気でその人のことを心配してあげられるように心を育ててみなさい。これはよいチャンスだと、すべての生命に慈悲の気持ちを広げて、慈悲の禅定状態を体験しなさい」とおっしゃるのです。

このように、ひどい悪条件をいい方向に変えてしまうのが、中道なのです。これが文句のない生き方なのですね。ですからここでは、お釈迦さまが、中道の論理に則して、怒りを収める方法を教えておられるのです。

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怒りの無条件降伏
中部経典「ノコギリのたとえ」を読む 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2004年6月