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こころのセキュリティ

爆発寸前のあなたを幸せに導く「日夜の指針」 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「不浄随念」の実践

それでは、各偈の三行目に移りましょう。

Kāyo(カーヨー) jiguccho(ジグッチョー) sakalo(サカロー) dugandho(ドゥガンドー)

「カーヨー」=からだ、身体。「ジグッチョー」=おぞましい。「サカロー」=全面的に、すべてに、全体的に。「ドゥガンドー」=悪臭。「この身体は不浄でおぞましい」という意味になります。

これは、仏教が推奨する「不浄随念」という瞑想です。この瞑想の目的は、人間は汚れに汚れているのだということを認めない非常識を、常識に直すことです。「この身体は不浄でおぞましい」と思うこと自体が非常識ではないかと、ふつうなら考えるでしょう。それを非常識だと言うのです。これはどういうことなのか、この瞑想の説明の前に、一般的な常識について考えてみましょう。

あなたの常識は真理の非常識になる

たとえば、犬や猫が死んだらどうするでしょう? 庭のある人は隅っこに穴を掘って埋めるか、保健所の人や業者に引き取ってもらいますね。ところが、人が死ぬと事情はぜんぜん違ったものになります。犬や猫の死骸は、胸に抱いたりそっと手で触れたりするのに、人間が死ぬと触りもしません。葬儀屋さんを呼んで、死んだその人が突然、拝む対象に変わってしまうのです。生きているあいだは、ケンカしたり文句を言ったりバカにしたりしていましたが、死ぬと突然、拝む対象になるのです。しかも、悪口も言わないし、バカにもしない。それどころか、生きているときには本人の前で言ったことのないようなほめことばを発して、すばらしい人だなどと言うのです。

また、日本では人間の遺体をテレビで放映したり新聞には載せたりしませんね。しかし、海外で報道された遺体の映像は、そのまま掲載するのです。遺体の画像が故人にたいして失礼にあたるというのでしょうが、そうであれば海外から送られてくる画像も一般には公開しないというのが、道義的には正しいのではないでしょうか? この日本的文化の常識は、仏教の平等という視点から見ると、ちょっと理解に苦しみます。

いずれにせよ、遺体は喜んで鑑賞するものでないことだけは確かです。医学的、科学的に研究する興味を抱いている人でないかぎり、遺体を見ることは気持ちのいいものではありません。ところが、では、私たちはどんな遺体でもイヤがるのかというと、そうでもないのです。牛や豚、鶏や魚などの遺体は売って商売したり、高くても喜んで買う人もいます。そういう遺体を見て、涎を流して喜ぶ人もいます。

では、そういう牛や豚の遺体を売っている店先に、人間の腕やら脚の骨を一本並べて置いたらどうでしょうか? だれもその店には近づかなくなるでしょうし、一日でその店は閉鎖することになってしまうでしょう。お巡りさんや保健所の人が駆けつけてきて、たぶん法律で裁かれるような事態になるでしょう。こういう話は人間社会ではごく常識として受けとめられるのでしょうが、仏教の世界でこれは常識的とは思わないのです。

仏教では、人間の骨も豚や牛の骨も同じ、たんなる骨であると見るのです。

おそらく皆さんは、人間の身体はとてもきれいで、尊いものだと思っていることでしょう。でも、こういう例でお話しすれば、ちょっと考え方を変えるかもしれません。

会社や学校へ行くときに、皆さんは満員電車に乗って通っていますね。知らない他人が身体をひっつけあって、夏などは汗をかいてベトベトした肌が直接触れあったりして気持ち悪いでしょう。ときどき、お風呂に行くお金もないホームレスの人なども乗り込んできて、あなたの側に立ちます。その体臭は鼻がひん曲がるぐらい強烈で、車内中が悪臭で満たされます。でも、皆さん上品で人がいいから、イヤな顔もせず黙っていますが、それでも少しずつ少しずつその人のそばから離れていくでしょう。

そのホームレスの人は、寝るところといえば駅の構内です。駅の構内という場所は、パートの人などがしょっちゅう掃除をしていて、けっこう清潔に保たれていて、街の中などよりはずっときれいです。そういうところで生活している人の身体は、案外きれいなのです。それでも、二、三日お風呂に入らなかったぐらいで体臭は猛烈で、耐えがたい状態になります。犬や猫と比べてみてください。犬や猫が一か月もお風呂に入らなかったとしても、皆さんは平気で「ああ、かわいい、かわいい」と言って自分の腕のなかに抱きしめるでしょう。二、三日お風呂に入らなかった人間のからだの汚さと、一か月もお風呂に入らなかった犬や猫とは、いったいどちらのほうが汚いのでしょう。人間のからだというものは、洗わなかっただけでも耐えられないほどの悪臭を放ちます。

「私は美しい」「私はすばらしい」と思っている人へ

人がもともとの自分の姿、ありのままの姿を否定して、いかに自分を美しく、恰好よく見せるかに腐心するのは、もはや世界中の常識となっています。世界経済を動かしているのは、この服やアクセサリー、化粧品などを生産している産業が中心となっているのではないかとさえ思ってしまいます。これは、いったいなにを意味するのでしょう。センスが悪かったり、髪形、顔の手入れをしなかったり、からだもなにかの布かなんかを巻きつけただけだったとすると、自分を見る人びとがみんな気持ち悪がるということを自覚しているからでしょう。そういうことに神経を使って生きないと、本人自身も自信を喪ってしまうのです。

この人間を美しく恰好よく見せる製品を扱う産業が世界経済の大半を占めるということは、人間はもともと自分の存在がとても汚くて、そのままでいたらみんなから嫌われ、疎まれる存在だということを知っているのではないか、という皮肉を言ってみたくもなります。でも、この世はそうではありません。人間のからだは元来美しいもの、尊いものだという常識が、まかり通っているのです。美しい身体をさらに美しく、恰好いい姿をもっと恰好よく見せるために、お金を使い、知識を蓄え、手間や時間をかけるのだと思い込んでいるのです。それは、まさに欲の世界、見栄の世界、無知の世界を象徴しています。

この世間の常識になんの疑念ももたず、むしろこの常識を是として喜んでいる人がたくさんいます。美しく着飾ったりお化粧する人自身は、まずそのことでたいへんな苦しみを味わっていることも事実でしょう。お化粧が自分の気に入らなかったり、高い洋服が経済的な事情で買えなかったり、太りすぎたり痩せすぎていて恰好いい自分を見せられなかったりと、その精神的な悩みでストレスを増幅させている人も多いのです。

自分は美しい、恰好いいと思っている人――だいたい人間はみんな大なり小なりそういうふうに思っていますが――は、その自分のからだを守ること、維持することに必死になります。歳を取ることも、皺が出てくることも、髪の毛が白くなり抜け落ちてくることも、たいへんな心配ごととなります。それだけではありません。病気になることも、死ぬことも、強烈な苦しみになっていくのです。そういう人びとは、中身はいっさい見ようとせずに、見せかけの、化粧してごまかしている部分にしか関心がありませんから、こころの真理を見る余裕も、事実を見抜く能力も持っていません。

また、人のからだは美しいものだということを信じている人は、それが高じると頭がおかしくなったり、犯罪を起こす危険さえ出てくるのです。見せかけの美しさ(それさえも見ている側の錯覚なのですが)を追いかけて交際を迫ったり、レイプやストーカーなどの罪を犯してしまうことが、この世間では毎日のように起きています。人殺しまでする人が、跡を絶たないのです。

この欲の感情が異常現象を起こしたら、精神的な病人になってしまうのです。そんな恐ろしい事態に陥らせないために、仏教では「世間の常識というものを否定しなさい、そういうさまざまな色のついたヴェールを剥いで真実の実態をありのままに見てごらんなさい」とすすめているのです。

これでもあなたは自分がすばらしいと思いますか?

「人間のからだは不浄なものだ」と観察すると、こころがどんどんきれいになる、と仏教では説きます。だいたい、美しい、汚いという概念もまったくいい加減なもので、みんなその人の主観であって、その主観もたいていは欲の感情から出ているにすぎない妄想なのです。単純に、いま日本のタレントさんでいちばんきれいな人はだれですかと訊いても、百人に聞けば百人が違う答えを出すのです。もしきれいな人という概念に真実というものがあるのなら、百人の人がみんな一致して同じ人を言うはずです。そうはならないということは、美しい人などという概念はまったくいい加減で、あてにならないものだということになるでしょう。

きれいだ、汚い、好きだ、嫌いだというのは、みんな個人の主観による判断であり、感情の働きです。この感情は、こころの汚れです。言ってみれば、爆発の安全弁を外した危険状態です。そういうときのこころは、爆薬そのものなのです。ちょっと火を点けたら、一気に爆発してしまいます。だからこそ、そのこころを管理しなくては危なくてしかたがないのです。

ブッダの弟子で第一の智慧者といわれているサーリプッタ尊者が、人間のからだとはどのようなものであるかという説法をしている箇所があって、そこではこんな説明をされています。

「おしゃれ好きの若者の首に、腐りかけて悪臭を放っている蛇の死体を首輪としてかけたら、その若者はどれほどイヤがることでしょうか。私は、私のからだをそれぐらい汚いものだと観察しています」

人間には、頭の部分に目・耳・鼻に二つずつ、口に一つの計七つの穴があります。加えて、からだの下方には尿道と肛門という二つの穴があって、合計で九つの穴があります。それら九つの穴から排出されるものは、どれもこれも汚いものばかりです。悪臭も放ちます。鼻から出している鼻水、口から出す涎など、見た目にも不潔で汚く、見たらだれでもすぐに目をそらしてしまいます。それらの穴以外に、さらに皮膚にも無数の穴があって、そこから出てくる汗や脂は、出している本人もイヤがるものです。

清潔で美しいものも、人間のからだに触れた瞬間に汚いものに変わってしまいます。きれいでおいしそうな鮪の刺身でも、だれかが口に入れて噛んで吐き出したものを、ほかの人が食べることができますか? 一度口から出したものは、出した本人でも、もう二度と口に入れようとはしません。他人が汗を拭いたハンカチで、自分の汗を拭くことができますか? それがどんなにきれいで高級なハンカチであっても、他人の肌を拭ったものはイヤでしょう。もしそういうものを好むという人がいたら、それは異常者でしょう。

からだは、一方でこのように清潔で衛生的なもので養われてはいますが、からだそのものは不浄物質を生産し排出しつづけている工場なのです。

また、他人のからだが自分にとっての猛毒になることがよくあります。手術で輸血する場合など、医学的に厳しく管理していないと命取りになることがあります。移植手術でも、ちょっとでも細菌に感染した臓器を移植してしまったらおしまいです。若い女性の皮膚などを見て、美しいと思ったり、若くていいなあと羨ましがっている人でも、皮膚の表面についている汚物などを拡大して見せてあげると失神してしまうのです。

まず、自分のからだは不浄なものである、と観察します。そして同じように、他人の身体も不浄なものである、と観察するのです。そうすると、ほんのわずかな時間で、まず「欲」という感情が消えていってしまいます。「欲」という悪い因子が、こころに入ることのないように防ぐことができるのです。

それとともに、盗みや淫らな行為もしなくなり、嫉妬などの感情もきれいになくなってしまいます。欲という呪縛から離れることができるのです。清らかなこころで安全に、幸福に生きるためには、「からだは不浄である」と見ることは、方法としてもっとも手っ取り早く効果的です。

この三行目を理解することで、こころという爆弾を構成する「欲」という部分が爆発しない状態になっていくのです。

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こころのセキュリティ
爆発寸前のあなたを幸せに導く「日夜の指針」 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2002年9月