施本文庫

お釈迦様のお見舞い

気づきと正知による覚りへの道  

アルボムッレ・スマナサーラ長老

5.「苦の感覚」の生起と「怒りの随眠煩悩」の消滅

Tassa ce, bhikkhave, bhikkhuno evaṃ satassa sampajānassa appamattassa ātāpino pahitattassa viharato uppajjati dukkhā vedanā.
So evam pajānāti-uppannā kho myāyaṃ dukkkhā vedanā.
Sā ca kho paṭicca, no appaṭicca.
Kim paṭicca?
Imameva kāyaṃ paṭicca.
Ayam kho pana kāyo anicco saṅkhato paṭiccasamuppanno.
Aniccaṃ kho pana saṅkhataṃ paṭiccasamuppannaṃ kāyaṃ paṭicca uppannā dukkhā vedanā kuto niccā bhavissatī ti.

比丘たちよ、もし、その比丘が、このように気づきと正知をもって、精進しつつ煩悩を炙りながら頑張っているときに、苦の感覚が生まれたら、彼は、このように知ります。
「まさに、私に、この苦の感覚が生まれた。
しかしながら、まさに、それは原因があって(生まれたものであり)、原因がなければ(生まれない)。
何が原因かといえば、まさに、この身体が原因なのだ(身体があるから、苦の感覚が生まれたのだ)。
しかしながら、まさに、この身体は無常であり、作られたものであり、原因があって現れたものだ。
ならば、まさに、無常であり、作られたものであり、原因があって現れたものである、身体を原因にして生まれた苦の感覚が、どうして常住になるだろうか」と。

◆冥想の手引 Dukkhā vedanāが現れた原因

このように頑張っている比丘たちに、今度は「苦しい」という感覚(dukkhā vedanā)が生まれます。これも前と同じように考えるのです。「何か原因があったから、この苦しみの感覚が生まれたのだ。なぜこんなに苦しいのか、原因は何なのかというと、身体があるから身体の中に苦の感覚が生まれたのだ。つまり身体が原因で苦しい感覚が生まれたのだ」とわかるのです。

しかし身体はずーっと変化していくのです。一定しません。無常です。できあがったものです。原因によって現れたものです。すぐに変わります。ですから無常たる、すぐ変わる、原因によって合成されている身体によって生まれたこの苦しみも、いますごく気分が悪いけれど、そのうち消えるのです。身体から生まれた苦の感覚が、常住になるはずもないのです。

So kāye ca dukkhāya ca vedanāya aniccānupassī viharati, vayānupassī viharati, virāgānupassī viharati, nirodhānupassī viharati, paṭinissaggānupassī viharati.
Tassa kāye ca dukkhāya ca vedanāya aniccānupassino viharato…pe…paṭinissaggānupassino viharato, yo kāye ca dukkhāya ca vedanāya paṭighānusayo, so pahīyati.

彼は、身体についても、苦の感覚についても、無常であると観ています。
そのうちに消えてなくなるものだと観ています。
執着するものではないと観ています。
滅するものに捉われてはならないと観ています。
捨てるべきものと観ています。
彼が、身体についても、苦の感覚についても、無常であると観ていると、そのうちに消えてなくなるものだと観ていると、執着するものではないと観ていると、滅するものに捉われてはならないと観ていると、捨てるべきものと観ていると、身体と苦の感覚にある随眠(隠れている)怒りの煩悩ですが、それがなくなります。

◆冥想実践の手引 Dukkhā vedanā随観法 

苦の感覚に対して、無常であると、そのうち消えるのだと、こんなものに執着するものではないと観るのです。こういうものにも囚われてはいけない、こういうものから離れようと思うのです。そうなってくると、身体に生まれた苦の感覚に対してどんな随眠煩悩が出てくるのでしょうか。怒りです。いやな感覚だったら怒りの煩悩(paṭighānusayo)が出てくるのです。「いや」という言葉も怒りですから。 

そういうわけで人間というのは病気になると激しく怒りを作るのです。そして怒りがなおさら身体を壊すのです。だから人間というのは、病気になるとなかなか治らない。次から次へと別な病気にかかったりするのです。病気になるということは、気持ちが悪いし調子が悪いし、食べたいものは食べられないし、やりたい仕事はできなくなる。そのように状況が最悪なのです。身体も悪いし、だるいし、痛いし、怒りも出る。怒りが出たら薬も効かなくなるのです。 

楽しみに対して冷静で無執着でいられる人に限って、苦しみの感覚に対して無執着のこころが作れます。楽しい感覚が生まれてもまったく平気で冷静でいる人だけが、苦しみの感覚が出てきても冷静でいることができるのです。苦しい感覚が起きても、サティとサンパジャーナがあれば怒りの煩悩が生まれないのです。 

ですからヴィパッサナー実践している人は、楽しみに対して無執着の実践をしておかないといけません。楽が現れたら簡単に調子に乗る人は無執着になれないのです。それではヴィパッサナー実践失敗です。 

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この施本のデータ

お釈迦様のお見舞い
気づきと正知による覚りへの道  
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2008年5月