お釈迦様のお見舞い
気づきと正知による覚りへの道
アルボムッレ・スマナサーラ長老
1.時間の過ごし方
Ekaṃ samayaṃ bhagavā vesāliyaṃ viharati mahāvane kūṭāgārasālāyaṃ.
Atha kho bhagavā sāyanhasamayaṃ paṭisallānā vuṭṭhito yena gilānasālā tenupasaṅkami;upasaṅkamitvā paññatte āsane nisīdi.
Nisajja kho bhagavā bhikkhū āmantesi–––
お釈迦様はある時、ヴェーサーリのマハーワナ(大林)にあるクーターガーラサーラーにお住まいになっていました。
さて、まさに、お釈迦様は、夕方になり独坐の冥想から出られ、(外に出て)病棟のあるところに行きました。行って、用意された椅子に坐りました。
坐って、まさに、お釈迦様は、比丘たちに話しました。
お釈迦様が説法をなさったのは午後です。お釈迦様は、昼間はほとんど誰とも話しませんでした。食事の後は禅定に入っていたのです。釈尊の弟子たちも午後、沈黙を守る、冥想修行をするのです。食事後は、身体がだるくなって睡魔に襲われるのは普通ですが、少々の時間でも怠けるのはよくありません。それでこのような習慣になっていたのではないかと思います。夕方になるとお釈迦様は外に出て、病棟の用意された椅子に坐って比丘たちに話しはじめました。
Sato, bhikkhave, bhikkhu sampajāno kālaṃ āgameyya.
Ayaṃ vo amhākaṃ anusāsanī.
いつでも比丘たちはサティとサンパジャーナがあって、時間を過ごすべきです。
これが、あなた方に対する私の忠告です。
正覚者、天人師であるブッダが指導者として比丘たちに何か、アドバイス、忠告をするならば、それは「サティとサンパジャーナを常に持ちなさい」ということなのです。
◇時間を過ごす kālam āgameyya
皆様方は、時間(kāla)というのは過ぎ去っていくものだと思っているでしょう。「私は動かない。時間のほうが動いているのだ」と。
残念ながら違います。
私たちは、どんどん、どんどん年をとっていくのです。人生は、止まってはいません。そのほかの物事も止まっていません。ずーっと流れていくのです。
ですから私たちが普通に使う「時間が過ぎ去る」という表現は、あまり仏教的な言葉ではありません。論理的でないからです。べつに時間というものが過ぎ去っていくわけではないのです。ものごとは全部止まることなく変化していくのです。
それなのに私たちは「自分が変わらない」という前提で世の中を見ているのです。自分が一箇所で止まっている。それで時計を見て、「一時間も経ってしまった」と平気で言うのですが、実際は、自分が一時間分、年を取ったのです。だから時計で言うよりは、自分の時間がなくなったと言ったほうがいいのです。「自分の人生、自分の寿命が一時間なくなってしまった」と。
私たちは、自分が一箇所で動かないという前提で、ものを考えているのです。車に乗って「この車は速い」と言う場合は、「動かない地面」を前提として、「地面は動かない、それに比較すると車は動いている」というふうに考える。そこで、自分の希望より速い場合は「車が速い」と言うし、希望より遅いなら「この車は遅い」と言うのです。
私たちの頭というのは単純にできていて、いつでもひとつの誤解、幻覚を前提にして、考えているのです。それは「私がいる」という幻覚です。この幻覚がなければ、私たちは何も考えることができなくなるのです。
しかしこう言われても、「いくらなんでも、自分というものはあるんじゃないか」と思っているでしょう?
でも、ないのです。「変わらない自分がいる。私はいるんだ」という前提で考えているものは、全部間違いなのです。
そうはいっても実際に、「この花はきれいだ」「ご飯が美味しいなぁ」「この音楽は美しいなぁ」とか、そういうことを自分が感じているでしょう。だから、私がいなかったらちょっと困るということで、「私がいる」を強引にでも何とか正当化しようとするのです。
でも本当は、「花が美しい」も「ご飯が美味しい」も、「私がいる」という幻覚があってのことで、そうでなければ成り立つものではないのです。
お釈迦様はこういう論理的な説明をわざわざしたわけではなくて、ただkālam āgameyyaとおっしゃっています。kālam āgameyyaとは、流れていく自分の時間というか、人生です。それをどのように観ていくのか、ということが問題になります。この言葉のニュアンスを日本語にするのは難しいので、「時間を過ごす」と訳すしかないでしょう。しかし、お釈迦様からしてみれば、「これこそ言っておきたい」という大切な言葉なのです。
◇正念と正知 satiとsampajāna
お釈迦様はお坊さんたちに「サティとサンパジャーナで時間を過ごすべきだ」とおっしゃっています。「サティ」というのは、皆さまが実践している「気づき」です。「サンパジャーナ」というのは「理解すること」です。「気づき」といえば、過去でも将来でもなく、「いま現在の自分のことを気づく」のです。それで「いまの自分というものは何か」と気づいて、それを理解しておく。これが「正念」と「正知」ですね。
すべての生命には「知る機能」がありますが、知っているものは、ひとかたまりで「誤知」になってしまいます。だから私たちが知っている世界すべては誤知なのです。それがよくないということをはっきりと言うために、私は「捏造」という単語も使います。
同じものを見て、同じものを聞いて、同じものを食べても、私たちが違う知識を持つのはなぜなのでしょうか。
もし私たちが本当のことを知っているなら互い違いはありえないのですが、現実には思考が似ている人間は一人としていません。「知っていること」は人それぞれです。それは人間が、好き勝手に物事を考えて作りあげるからです。私たちがデータを捏造するからです。勝手にデータを捏造して認識するのだから、知は「正知」ではなくて「誤知」になってしまうのです。
日本語訳でもサンパジャーナには、はっきりと「正知」という言葉を使っています。サンパジャーナというのは正しく知ることなのです。たとえばサティを実践しながら実況中継をしていると、その知は正知なのです。そこで「痛い」と実況すると誤知で、「痛み」と実況すると正知なのです。「音」と実況中継すると正知で、「鳥のさえずり」と実況すると誤知になるのです。
なぜ「痛み」が正知になり、「痛い」が誤知になるのかというと、「痛みの感覚」は誰でも同じだからです。しかし、「痛いという認識」は同じではないのです。殴られて痛いと思う人がいる一方で、殴られても痛いと思わない人もいるのです。
たとえば、身体を鍛えたボクサーなら、多少のパンチを受けても痛いとは思わないのです。でも同じパンチが私たち素人に当たってしまったら、すごく痛いのです。
そこで、同じ力のパンチが身体に当たったら、ボクサーにも私たちにも同じ「痛みの感覚」が生まれるのです。そうやって、「感覚」が生まれるところまでは同じです。
しかし、「痛い」と認識する場合は、各人バラバラになるのです。ボクサーにしてみれば痛くてもたいしたことではありません。そんなのは日常茶飯事ですから。でも一度もボクシングをやったことのない私たちがパンチを一発でも食らったら、倒れて病院に運ばれる羽目になります。それどころか、その「痛い」状況はかなり長引いてしまうのですね。
このように「痛い」とみると、人々の勝手な誤知。でも「痛み」としてみると、みんなに同じです。普遍的なのです。
そういうことで、実況中継してサティの実践をする場合は、必ず正知が現れるようにと、厳密な実践方法をお釈迦様は説かれているのです。正知なら事実ですから、誰でも同じなのです。「美味しい」というと人の勝手な捏造で、実況中継するならば「美味しい」ではなくて、「味」「味覚」です。
ライオンにおにぎりを食べさせたとします。味覚がないわけではないから、「味」は感じるのです。しかし、ライオンはその味に「美味しい」とは言わない。ですから「おにぎりが美味しい」というのは人間の勝手です。だから「美味しい」と言うと正しくない、誤知なのです。味を知るところまではよいのですが、それを「美味しい」というと誤知に変換してしまっているのです。
「味覚」といえばみんなに同じです。舌がない動物は味を感じないでしょうが、舌があるならば必ず味覚を感じるのです。そういうことで、サティという気づきの実践をする時は、いまの瞬間に起こる感覚に気づいていると、いつでも「知」は正しく行う。つまり「正知」になるのです。
この施本のデータ
- お釈迦様のお見舞い
- 気づきと正知による覚りへの道
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2008年5月