施本文庫

お釈迦様のお見舞い

気づきと正知による覚りへの道  

アルボムッレ・スマナサーラ長老

2.気づき

Kathañca, bhikkhave, bhikkhu sato hoti?
Idha,bhikkhave,bhikkhu kāye kāyānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā,vineyya loke abhijjhādomanassaṃ;
vedanāsu vedanānupassī viharati…pe…citte cittānupassī viharati…pe…
dhammesu dhammānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ.
Evaṃ kho, bhikkhave,bhikkhu sato hoti.

比丘たちよ、では、比丘は、どのように気づいているのでしょうか。
比丘たちよ、ここに比丘がいて、身において身を観つづけ、(煩悩を)炙り、正知をそなえ、気づきをそなえ、世界における貪欲と憂いを抑えて住みます。
もろもろの受において……略……。こころにおいて……略……。
もろもろの法において法を観つづけ、(煩悩を)炙り、正知をそなえ、気づきをそなえ、世界における貪欲と憂いを抑えて住みます。
比丘たちよ、まさに、比丘は、このように気づいているのです。

◇随観する Anupassati――サティの実践

これは有名な「四念処」です。ご存知のようにヴィパッサナー冥想では、四つの対象を念じるのです。
一つは身体です。自分の身体にしたがって、身体を追って、随観する。anupassanā(アヌパッサナー)は「随観、随念」などいろいろ言葉がありますが、漢字だけでは意味が通じない場合もあるので、パーリ語の意味を解説します。

試しに、線香やロウソクを立てて、火をつけてみてください。火のついたロウソクは止まっていますか? ずーっと、絶えず変わっているでしょう。火のついた線香を見ても同じことです。
おもしろいことに、ロウソクや線香の変化するスピードは一定しているのです。ロウソクの炎や線香の煙はずーっと同じスピードで上がり続けます。風が吹いたり、酸素が薄くなったりといった外部の原因で、燃焼スピードが変化することはあっても、基本的には、線香は自分の一定したスピードで燃え続けるのです。そのスピードはほとんど一定で変わりません。その特性をいかして、禅寺では坐禅する時間を計るために、線香をタイマー代わりに使っています。

仏教では、「現象世界は地・水・火・風という四つの元素で構成されている」と説いています。つまり線香・ロウソク・花・身体・山・森など、私たちが認識する物体は、地・水・火・風でできた現象なのです。花の変化のスピード、森の変化のスピードなどは、それぞれ違うものに感じますが、それは現象の変化です。私たちの身体も同じですし、すべての物質も同じことなのです。地・水・火・風の変化のスピードは一定しているのです。

そういうわけで、物体には二種類の変化が成り立ちます。まず「火のついた線香が早く消えた」という場合は、「現象の変化」です。それは我々の現象の世界で、捏造の世界で言う言葉なのです。
しかし普遍的にいえば、地・水・火・風で構成されたものは同じスピードでずーっと変わっていく。火をつけようが、火をつけまいが、線香自体は一定のスピードで変化し続けている。いつでも前のものとは違っているのです。この普遍的な変化に気づくと、大事なポイントを一つ発見できます。それは「すべてのものごとは一回きりで変わってしまう」ということです。まったく同じ現象は決して二度と現れないのです。

この普遍的な変化について理解するのは難しいので、炎とかロウソクとか線香とか、そういうものを見て理解するのです。仏典にもいろいろエピソードがあるでしょう。川の流れを見て、滝を見て、泡を見て、そうやって、この難しい真理を理解するのです。
たとえば滝を見ると、いつでも変わっているのですね。滝の変わり方を見ようと思っても、追いつかないのです。観察不可能なほど、滝が変わっているのです。そこで人間が捏造をするのです。「華厳の滝は結構きれいですよ。冬はあまり水がないけれど、夏はかっこいいですよ」などと言って。それは捏造の世界です。そう言っている人は、本当に華厳の滝を見たわけではないのです。ただ「華厳の滝」という固定概念を作っているだけ。固定した「華厳の滝」などないのだから、明らかに嘘なのです、幻覚なのです。滝はものすごいスピードで、観察不可能なほどの速さで変化していく、変わっていく。いまの瞬間に見た滝は、次の瞬間にはもういない。二度と同じ滝を見ることは不可能です。もう別の滝なのです。そのようにすべての物事は、物質は、変化していくのです。

では、私たちの身体はどうでしょうか? 私たちの身体も明らかに、流れて、変わって、変化しています。身体といっても止まっているものでなく、ものすごいスピードで変わっていくものです。

お釈迦様がおっしゃっているのは、anupassati(アヌパッサティ)随観して、「それを追っていってください」「変化と一緒にいきなさいよ」ということなのです。それが、「現在にいる」ということです。滝を見るならば、「いまの滝」を見ることです。いまの滝を見れば、それが「消える」ことが見えるはずです。いまの滝が消えて、別の滝が現れる。前の滝がなくなって、いまは別の滝があるのだと。

このように「いま」を観察することができますが、そのためには、やはり能力が必要です。頭の中がいろんな言葉やら、妄想概念、固定観念などで満杯になっているならば、その人の能力はゼロです。頭が動かない状態なのです。
ですから、一切の言語、概念などをなくして、頭を空(から)にしてみたらいかがでしょうか。
なんのことなく「流れていく」と観えます。頭を空にするなら、何を観察しても「すべての現象は二度と元には戻らず、絶えず消え去ってゆく」という事実、真理を発見することができるのです。

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この施本のデータ

お釈迦様のお見舞い
気づきと正知による覚りへの道  
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2008年5月