お釈迦様のお見舞い
気づきと正知による覚りへの道
アルボムッレ・スマナサーラ長老
◆冥想の手引 ②受随観 vedanānupassanā
もろもろの受において受を観つづけ、(煩悩を)炙り、正知をそなえ、気づきをそなえ、世界における貪欲と憂いを抑えて住みます。
身随観の次に、vedanā(ヴェーダナー)、身体の「感覚」を観察します。これも随観です。感覚の変化を追って、観察するのです。
ヴェーダナーとは、一般的に言えば、私たちによくわかる痛みやしびれ、かゆみなど身体に起こる感覚のことです。それでかゆみも、しびれも結局は「苦」なのです。それから、苦の感覚が減っていくと、「楽」だなあと感じたりする。あまり苦が強烈ではない場合は、「不苦不楽」だなあと思ったりする。そういうことで、修行者の認識に合わせて、「楽の感覚sukhā vedanā」「苦の感覚dukkhā vedanā」「不苦不楽の感覚upekkhā vedanā(adukkhamasukhā vedanā )」と三つに分けているのです。
この三つの感覚は、はっきり言えば、「苦の度合いの分類」なのです。苦があまりにも激しくある場合は「苦」という。苦がすごく減った場合は「楽」という。しかし、それも苦なのです。苦がすごく減ったわけでもなく、あるというほどでもない場合は、「不苦不楽」ということにしているのです。
身随観では、手を上げるなどの身体の動きを観察すると説明しましたね。
しかしその時も、身体の動きを「感じて」いるのです。感じるからこそ、観察できるのです。感じるということは、vedanā受、つまり感覚です。はじめから感覚を観察しているのです。
にもかかわらず身随観を先に述べた理由は、修行に励む人にとって、それがいとも簡単にわかりやすく、実践しやすいからです。
「膨らみ、縮み」と実況中継していても、「膨らむ感覚、縮む感覚」を観察しているのです。vedanā受の観察なのです。そこで、冥想を始めた当初は、「膨らみ、縮み」というのは不苦不楽の感覚だと思います。それから、どんどん冥想が上手にできるようになってくると、膨らみ縮みが、不苦不楽ではなく、苦だと観られるようになるのです。お腹の膨らんだ感覚も苦しくて、縮んだ感覚も苦しくて、膨らまないようにしようと思っても、それまた苦であると発見するのです。お腹のあたりに何か嫌な感覚がずーっとあって、それで膨らんだり縮んだりしているのではないか、とわかるのです。
身随観の次にvedanā受、感覚の随観を行うのです。煩悩をジリジリと炙り、正念正知をもって、異常な欲と憂い悲しみを制御するのです。このように、気づきの冥想を実践します。
◆冥想の手引 ③心随観 cittānupassanā
こころにおいてこころを観つづけ、(煩悩を)炙り、正知をそなえ、気づきをそなえ、世界における貪欲と憂いを抑えて住みます。
三番目に実況中継するのは、citta(チッタ)、「こころ」です。こころを実況中継するのは難しいのです。具体的な実況中継の仕方は、中部経典十『念処経』(Satipaṭṭhāna-sutta)に書いてありますから読んでみてください。『念処経』にあるとおりにやれば、こころの観察になります。こころはいろいろ波を打ったりするのです。いまこころが狭くなっている、いま活動しているとか、こころの状態、その時その時の気分は何なのかと実況中継してみると、こころのサティになります。
ときには俄然(がぜん)冥想をやる気が出てきたり、ときには全然やる気がないけれど、「やっぱりやらなくちゃいけない」と思ってやったりとか、コロコロと気分が変わっていきます。だから気分を観察することがこころを観察することだと思ってください。痛み、かゆみなどを実況中継しながら、いまどんな気分かとか観てみれば、こころの観察になります。いまの気分を観て、やめたい気分だったなら、それはその時のこころがそういう気持ちになっていると観察したことになるのです。
そうやって膨らみ縮みだけではなく、痛みかゆみだけではなく、気分も観察してみると、こころの観察になります。経典ではもっと明確に
貪りのあるこころを、貪りのあるこころであると知ります。あるいは、
貪りを離れたこころを、貪りを離れたこころであると知ります。あるいは、
怒りのあるこころを、怒りのあるこころであると知ります。あるいは、
怒りを離れたこころを、怒りを離れたこころであると知ります。あるいは、
愚痴のあるこころを、愚痴のあるこころであると知ります。あるいは、
愚痴を離れたこころを、愚痴を離れたこころであると知ります。あるいは、
……という具合に十六のこころのリストがあるのです。
無色透明の空気を見るようなもので、こころを純粋に対象として認識することはできないと思います。そこで、こころを「心所」で発見するのです。こころはいつも心所と一緒に起こるのです。心所がこころに差をつけるのです。たとえば「怒り」という心所が出たら、「いま怒りのこころです」と実況する。その怒りが消えてゆくとき、「いま怒りがないこころです」と実況する。このように、心所という「しるし」でこころを発見するのです。
普通は自分にこころがあるということもわからないのです。でも、怒ったらわかります。怒ったのはこころですから、こころに怒りが入るとわかるのです。同様に、こころに欲が入るとわかります。心所がなければ、こころがわからなくなってしまいます。だからcittānupassanāを実践する場合は、心所で追って観ることになっているのです。「いま怒りがある」「いま欲がある」「いま落ち込みがある」という具合に観察すると、それがcittānupassanā心随観です。
◆冥想の手引 ④法随観 dhammānupassanā
もろもろの法において法を観つづけ、(煩悩を)炙り、正知をそなえ、気づきをそなえ、世界における貪欲と憂いを抑えて住みます。
四番目はdhammānupassanā法随観です。ジワジワと①~③の随観をできるようになってくると、ダンマーヌパッサナーに入るのです。
強引に法随観から実践しても、成功するとは思えません。
まず、歩く冥想のように、身体のことから始めなくてはいけない。身体から始めると、すぐ感覚のほうに自動的に成長していきます。感覚を観ようとしたところで、自動的にこころの変化に実況中継が行ってしまいます。その時点になると、観察のスピードがおのずと速くなっているので、忙しいのです。それでさらに進みたいという意志が生じて、より詳細に現象を観察しようとします。そこではじめて、「言葉で実況中継すると、ぜんぜん間に合わない。言葉を付けるや否や、現象が消えていく」と発見するのです。そこで、正知から「真理の発見」に入っていきます。普遍的な真理へと進むのです。「現象一つ一つというよりは、普遍的な真理で言葉をかけたほうが、現象の変化と実況中継が一致するのだ」と発見したところで、修行がやりやすくなります。
ダンマというのは捏造がまったくなく、現象をありのままに観られることです。
最初は膨らみ、縮みと実況中継していたが、「ああ、やっぱり膨らみも縮みも、『痛み』という似た感覚で、結局は苦だ。身体は苦で変化しているのだ」と観えてきます。それで苦の流れを実況することにすれば、結構時間の余裕が現れます。
次に、痛みでも小さくして単位ごとに観ようとすると、痛みが現れて消えて、現れて消えてゆく流れが明確になります。そこで、その止まらないで変化し続ける状態を「無常」として観察することにします。
次に「現象が、苦であり無常である」と発見した人は、「現象が、実体もない、価値もない、現象にすぎないものである」と発見します。それは「無我の発見」なのです。このようにして自動的に、苦を観察する、無常を観察する、無我を発見する、と進むのです。
「真理」は、お釈迦様によって発見され、説かれた真理のみです。それ以上、真理というものはありません。私たちが、お釈迦様の発見されなかった新たな真理を発見することはありえません。ですからちゃんとヴィパッサナー冥想をなさる方は、しっかりと八正道を発見する、七覚支を発見する、四聖諦を発見する、無常・苦・無我というものを発見するのです。物事は因縁によって現れて消えるという、お釈迦様の説かれた真理を全体的に発見するのです。そのように真理を一つずつ発見してゆく過程が、dhammānupassanā法随観なのです。
この施本のデータ
- お釈迦様のお見舞い
- 気づきと正知による覚りへの道
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2008年5月