施本文庫

お釈迦様のお見舞い

気づきと正知による覚りへの道  

アルボムッレ・スマナサーラ長老

3.正知するとは

Kathañca,bhikkhave,bhikkhu sampajāno hoti?
Idha,bhikkhave,bhikkhu abhikkante paṭikkante sampajānakārī hoti,
ālokite vilokite sampajānakārī hoti,
sammiñjite pasārite sampajānakārī hoti,
saṅghāṭipattacīvaradhāraṇe sampajānakārī hoti,
asite pite khāyite sāyite sampajānakārī hoti,
uccārapassāvakamme sampajānakārī hoti,
gate ṭhite nisinne sutte jāgarite bhāsite tuṇhībhāve sampajānakārī hoti.
Evaṃ kho,bhikkhave,bhikkhu sampajānākārī hoti.
Sato, bhikkhave, bhikkhu, sampajāno kālaṃ āgameyya.
Ayaṃ vo amhākaṃ anusāsanī.

比丘たちよ、では、比丘は、どのように正知するのでしょうか。
比丘たちよ、ここに比丘がいて、進むにも退くにも正知をもって行動します。
まっすぐ見るにもあちこち見るにも、正知をもって行動します。
曲げるにも伸ばすにも、正知をもって行動します。
大衣と鉢衣を持つにも、正知をもって行動します。
食べるにも飲むにも噛むにも味わうにも、正知をもって行動します。
大便・小便をするにも、正知をもって行動します。
行くにも立つにも坐るにも眠るにも目覚めるにも語るにも黙するにも、正知をもって行動します。
比丘たちよ、まさに、比丘は、このように正知するのです。
比丘たちよ、比丘は、気づき(サティ)と正知(サンパジャーナ)をもって、時間を過ごすべきです。
これが、あなた方に対する私の忠告です。

◆冥想の手引 正知 Sampajāna 

これまで私は何回も、「サティとサンパジャーナは一緒ですが、どうやって正しく知ることができますか、正知はどのように実践すればいいのでしょうか?」と質問されました。このセクションでは、お釈迦様がその質問に見事に答えているのです。私たちは、物事を理解しなくてはならないのです。ただ実況中継するだけでは足りなくて、sampajāna(正知)、理解を育てなくてはいけないのです。その理解をどうやって育てるのかと、こちらで方法を教えています。

進むにも退くにも正知をもって行動します。

Abhikkante前に進むにしても、paṭikkante 後ずさるにしても、よく気を付けてやってくださいということです。
たとえば、車を運転するときはサティではできません。サンパジャーナでするのです。サティで「はい、ブレーキをかけます」などと実況中継していたら、もう事故って死んでしまいますからね。しかし、ドライバーは、ちゃんと「知って」やっているのです。

実際、自動車を運転する時にあるのは、サンパジャーナなのです。ドライバーはまわりの状況を知っていて、自分の車のスピードや、他の車のスピードなどもみごとに知っていて、道路の状況も知っていて、何のことなく手足が動いてしまう。考えなくても、危険なときはパッとブレーキに足がいきます。あの能力はサンパジャーナと似ています。サンパジャーナがあれば、運転していても間違いは起らないのです。サンパジャーナがなくなったら、途端に、もう事故を起こしてしまいます。
そのように、歩くときはしっかりと知って歩く。後ずさるときでもよく知って後ずさるのです。

まっすぐ見るにもあちこち見るにも、正知をもって行動します。

Ālokiteまっすぐ見ること、vilokite横に見ること。パーリ語では暗記しやすいように、ālokite vilokiteと、言葉を美しく並べています。だから何のことなく憶えられます。

曲げるにも伸ばすにも、正知をもって行動します。

Samiñjite手足を曲げる、pasārite伸ばす。私たちは手足を曲げたり伸ばしたりするでしょう。その時もちゃんと知ってやってください。
普段からサティの実践をする時、手を伸ばす場合は「伸ばす、伸ばす」と実況中継しているでしょう。
しかし日常の仕事をしていて、「伸ばす、伸ばす、伸ばす」などと言っている場合ではないときもあります。それでも「知って」やらないと、どうなるかわかりません。
だから日常生活の中では実況中継よりは、サンパジャーナを実践したほうがいいのです。でも始めたてはサンパジャーナの能力がないから、私は「できるだけ動詞だけで実況してください」と教えているのです。動詞だけで実況中継すると、結構サンパジャーナが増えてきます。

「ジャガイモの皮をむきます」という実況中継はやりづらいし、面白くもありません。けれど「むく」「押す」「まわす」と言うと面白くなってくるのですね。「取る」「離す」「押す」「引く」、そういう、いくつかの単語だけで全部仕事ができるのです。
そこで動詞の単語だけに絞って実況中継を行ってみると、ものごとの本当の姿が見えてくるのです。サンパジャーナで、いままで見ていたこの世界が幻覚だったとわかるのです。精進料理を作るとか、ビーフシチューを作るとか言っても、実際にしているのは、ただ「引く」「押す」「回す」というくらいのことでしょう。何をやろうとしても、それでできてしまう。日本の天下を取っている総理大臣にしても、何のことはない。ただ「引く」「押す」「回す」……の繰り返しで仕事をしていますよ。
そういうわけで、サンパジャーナを実践すると、幻覚が破れて本当の世界が観えてくるのです。

大衣と鉢衣を持つにも、正知をもって行動します。

Saṅghāṭīは重衣・大衣と訳されていますが、布を重ねて縫われた出家者の衣(袈裟)のひとつです。Pattaは托鉢に使う鉢のこと、cīvaraはやはり衣(袈裟)のこと。鉢を持ったり、衣を着たりするときも、きちんと知って行ってください、というくだりです。

食べるにも飲むにも噛むにも味わうにも、正知をもって行動します。

Asiteというのは食べること、pīte飲むこと、khāyite噛む・齧ること、sāyiteなめること。これらはいわゆる食べ方ですね。食べ物によって、普通に食べるか、飲むか齧るか、なめるかという食べ方になります。それらも、きちんと知って行うことで、正知がどんどん現れてきます。

大便・小便をするにも、正知をもって行動します。
行くにも立つにも坐るにも眠るにも目覚めるにも語るにも黙するにも、正知をもって行動します。

それからgate歩くとき、ṭhite立っているとき、nisinne坐っているとき、sutte寝ているとき、横になっていてもjāgarite眼が覚めているとき、bhāsite喋っているときも、tuṇhībhāve黙っているときも、ちゃんと気を付けて、知ってやってください。
その時も、集中力を使うと、サンパジャーナが現れてくるのです。うかつには何もやらないことです。ついやってしまったということがないよう、自分でよく知って、きちんと行うようにするのです。

「比丘たちよ、比丘は、気づき(サティ)と正知(サンパジャーナ)をもって、時間を過ごすべきです。これが、あなた方に対する私の忠告です」

お釈迦様はお見舞いに行って、病気のお坊さんたちに「サティとサンパジャーナの実践を片時も放さないように、これしか私に言うことはないのです」とはっきり言われたのです。お釈迦様でさえも、病人に対する励ましの言葉はこの忠告しかないとおっしゃっているのに、私たちは病人にどんな言葉をかけているでしょうか? 病気になったら、私たちはサティを実践するしかないのです。お釈迦様は、その実践の仕方まで詳しく教えているのです。

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この施本のデータ

お釈迦様のお見舞い
気づきと正知による覚りへの道  
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2008年5月