施本文庫

お釈迦様のお見舞い

気づきと正知による覚りへの道  

アルボムッレ・スマナサーラ長老

4.「楽の感覚」の生起と「欲の随眠煩悩」の消滅

Tassa ce, bhikkhave, bhikkhuno evaṃ satassa sampajānassa appamattassa ātāpino pahitattassa viharato uppajjati sukhā vedanā, so evaṃ pajānāti-uppannā kho myāyaṃ sukhā vedanā.
Sā ca kho paṭicca, no appaṭicca.
Kim paṭicca?
Imameva kāyaṃ paṭicca.
Ayaṃ kho pana kāyo anicco saṅkhato paṭiccasamuppanno.
Aniccaṃ kho pana saṅkhataṃ paṭiccasamuppannaṃ kāyaṃ paṭicca uppannā sukhā vedanā kuto niccā bhavissatī ti.

比丘たちよ、もし、その比丘が、このように気づきと正知をもって、精進しつつ煩悩を炙りながら頑張っているときに、楽しいという楽の感覚が生まれたら、彼は、このように知ります。
「まさに、私に、この楽の感覚が生まれた。しかしながら、まさに、それは原因があって(生まれたものであり)、原因がなければ(生まれない)。
何が原因かといえば、まさに、この身体が原因なのだ(身体があるから、楽の感覚が生まれたのだ)。
しかしながら、まさに、この身体は無常であり、作られたものであり、原因があって現れたものだ。
ならば、まさに、無常であり、作られたものであり、原因があって現れたものである、身体を原因にして生まれた楽の感覚が、どうして常住になるだろうか」と。

◆冥想の手引 Sukhā vedanāが現れた原因

このように一生懸命精進しながら、煩悩を炙りながら、サティとサンパジャーナで頑張っている比丘たちの身体に、「楽しい」という楽の感覚(sukhā vedanā)が生まれます。そのとき彼はこのように知ります。「身体に楽な感覚が生まれた」と。そして「何か原因があったから、この楽な感覚が生まれたのだ。なぜそんなに気分がいいのか、その原因は何なのかというと、身体が原因であることがわかる。身体があるから身体の中に楽な感覚が生まれたのだ。つまり身体が原因で楽な感覚が生まれるのだ」とわかるのです。

しかし身体はずーっと変化していくのです。一定しないのです。無常です。構成されたものです。原因によって現れたものです。すぐに変わります。ですから無常たる、すぐ変わる、原因によって合成されている身体によって生まれたこの楽も、いますごく気分がいいけれど、そのうち消えるのです。壊れるのです。なぜならば楽の土台になっている身体は無常で、すぐ壊れるからです。

paṭiccasamuppannaṃ kāyaṃ paṭicca uppannā sukhā vedanā kuto niccā bhavissatī ti.

いま自分が感じている喜悦感は無常たる身体から生まれたものだから、常住になるはずもない。どうやってこの喜悦感は永遠になるのでしょう。

釈尊はこの箇所で、ヒンドゥー教系の冥想修行者たちの信仰のあやまちを指摘しています。
ヒンドゥー教では、魂は永遠不滅で喜悦感に溢れていると説くのです。ヨーガ冥想を実践して、真我を発見すると、それがsat-citt-ānanda(サッチッターナンダ)だというのです。サットは「真理」、チッタは「こころ」、アーナンダは「喜び」です。この三つが魂の特性である、いわゆる喜悦感に溢れた永遠の魂がある、というのです。

確かにヨーガ冥想やサマーディ冥想を実践すると、身体中に喜悦感が溢れるのですが、しかし事実以外のことを推測してはいけません。この喜悦感は身体の中に生まれたもので、身体は見る見るうちに壊れるのだから、喜悦感も壊れるのです。だから、永遠の幸福感、喜悦感などあるわけがないのだと、永遠の魂は成り立たないのだと、釈尊が因果法則によって証明なさっているのです。

だいたい誰でも喜悦感にしがみつくのです。冥想してときどき集中力が生まれると、すごく気分がよくなったりします。だからといってもそれがずーっと続くわけではないのです。ある状態で身体を保つと喜悦感が生まれるのですが、ちょっと身体を揺らしただけでも状態は変わりますから、そうすると喜悦感は跡形もなく消えてしまうのです。

So kāye ca sukhāya ca vedanāya aniccānupassī viharati, vayānupassī viharati, virāgānupassī viharati, nirodhānupassī viharati, paṭinissaggānupassī viharati.
Tassa kāye ca sukhāya ca vedanāya aniccānupassino viharato,vayānupassino viharato,virāgānupassino viharato,nirodhānupassino viharato,paṭinissaggānupassino viharato,yo kāye ca sukhāya ca vedanāya rāgānussayo,so pahīyati.

彼は、身体についても、楽の感覚についても、無常であると観ています。
そのうちに消えてなくなるものだと観ています。
執着するものではないと観ています。
滅するものに捉われてはならないと観ています。
捨てるべきものと観ています。
彼が、身体についても、楽の感覚についても、無常であると観ていると、そのうちに消えてなくなるものだと観ていると、執着するものではないと観ていると、滅するものに捉われてはならないと観ていると、捨てるべきものと観ていると、身体と楽の感覚にある随眠(隠れている)欲の煩悩ですが、それがなくなります。

◆冥想の手引 Sukhā vedanā随観法

身体にものすごい喜悦感、楽な気持ちが生まれたら、比丘が、それは無常である、そのうち消えるのだと、消えることを観ているのです。「こんなものに執着するものでない」と観ています。こういうものにも囚われてはいけないと観るのです。「いま生まれている喜悦感も執着すると大変だ、こういう無常たるものに囚われるとろくなことがないから、こういうものから離れよう、捨てなくては」と、たとえ楽な感覚が生まれても、そのように思います。このように観ていると、その人の身体で生まれた楽な感覚に対する隠れた欲の煩悩(rāgānusayā愛欲随眠)がなくなるのです。

釈尊は、このセクションから「欲・怒り・無明(貪瞋痴)」の随眠煩悩をなくすための観察方法を順に説いていきます。「随眠煩悩」とは「一時的に機能していない隠れた煩悩」のことです。

何かの原因が引き金になって、いままでなかった煩悩が現れることがあります。それは世間を観察しても、よくわかりますね。いままでとてもおとなしく、悪いこともしないできた人が、突然、犯罪者になったりすることがあります。出家にしても同じです。乱れた環境から離れて修行する身になるとこころがきれいになるのですが、それで煩悩が消えてしまったと誤解してはならないのです。何かの原因で、新たに煩悩が牙をむくことがあるのです。欲の随眠煩悩は、身体が楽になると、喜悦感を感じることになると、いきなり芽吹いてくる可能性があります。だから修行者は、随眠煩悩をなくすことにチャレンジしなければならないのです。

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お釈迦様のお見舞い
気づきと正知による覚りへの道  
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2008年5月