施本文庫

ブッダは真理を語る

テーラワーダ仏教の真理観とその変容 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

第一の勝れた真理

Cattārimāni, paribbājakā, brāhmaṇasaccāni mayā sayaṃ abhiññā sacchikatvā paveditāni.
Katamāni cattāri?
Idha, paribbājakā, brāhmaṇo evamāha – sabbe pāṇā avajjhā’ti.
Iti vadaṃ brāhmaṇo saccaṃ āha, no musā.
So tena na samaṇoti maññati, na brāhmaṇoti maññati, na seyyohamasmīti maññati, na sadisohamasmīti maññati, na hīnohamasmīti maññati.
Api ca yadeva tattha saccaṃ tadabhiññāya pāṇānaṃyeva anuddayāya  anukampāya paṭipanno hoti.

遊行者のみなさん、私が智慧で覚っており経験して宣言しているバラモンの真理が四つあります。
その四つとは何でしょうか。
遊行者のみなさん、ここでバラモンがこのように言います。「一切の生命は害を与えてはならないものである。」
このように言うバラモンは真理を語っています。偽りを言っているわけではありません。
彼はこれによって、自分は沙門である、と想わない。バラモンである、とも想わない。(他人より)勝れている、と想わない。(他人と)等しい、とも想わない。(他人より)劣っている、とも想わない。
ただ、この真理を覚って、諸々の生命に対して同情と憐れみを行っているのみです。

遊行者たちは、自分たちが真理だといって対話していた内容を恐らくお釈迦さまにも報告したでしょう。それから、「お釈迦さまは何がバラモンの真理であると思いますか?」と訊いたでしょう。経典のストーリーをつなげるために、私はこのように推測します。でないと、飛び入り参加なさったお釈迦さまが、突然、頼まれもしないで自分で勝手に発表したことになります。人格者はそのようなことはいたしません。

それでお釈迦さまは、勝れた真理は四つあると、説かれます。それは、お釈迦さまがいろいろな人の話を参考にして考え出した真理ではないのです。自分の智慧で発見して経験した真理を発表するのです。

その四つの第一番目とは、「一切の生命というものは、害を与えるべきでないものである」というものです。勝れた真理だと言われても、「生命に害を与えてはいけない」というのは、一般常識ではないかと思われるかも知れません。一般的に言われているのは、世間一般の道徳・モラルのことです。この場合は、誰でも知っている(しかし誰も守ろうとしない)モラルの話ではないのです。覚りの智慧なのです。覚りの智慧によって、生命の本質を発見なさったのです。
一切の生命は、必死になって苦しみを避けようとする。苦しみを怯える。死を怯えるのです。生きることに、苦しみや死を避けることに、必死なのです。生きることに強烈に執着しているのです。そこで、生命というのは害を与えるべき存在ではないと、ひらめいたわけです。

自分がいるのだ、という自我の概念があると、自分を何としてでも守りたくなるのです。自分を守るためなら、他人に害を与えることも、他人を殺すことも、起こり得る行為なのです。お釈迦さまが覚りによって、自我とは錯覚であると発見なさったのです。
ですから、勝れた真理を発見したにも関わらず、「私は勝れた真理を発見したから真の沙門である」という思考・妄想・概念はないのです。一般的には、真理を発見した人こそが真の沙門なのです。真のバラモンなのです。「私はこういう者だ」という場合は、自我意識が根底にあるのです。真理を発見したことで、自我の錯覚が消えたのだということを示すために、あえて、「この真理を知っていたにも関わらず、私は沙門だ、私はバラモンだ、ということは想わない」と強調なさるのです。

自我が錯覚であると発見すると、当然、他人は自我があると思っていても、他人にも自我がないのです。ですから、自分を他人と比較してみる、という慢が成り立たなくなるのです。
それを示すために、他人より勝れているとも想わない、等しいとも想わない、卑しいとも想わない、というフレーズを語るのです。

生命には害を与えるべきではない、というのは、それほど珍しいことではないのです。大事なのは、自我の錯覚を破り、解脱に達することです。自我の錯覚はそのままにして、道徳を語る人々は、いくらでもいるのです。道徳を守る人々も、いくらでもいるのです。
しかしその人々は、他人より清らかな、勝れた生き方をしているのだ、他人と違うのだ、という気分からは抜けないのです。この気持ちも強い煩悩の一つなのです。やがて、精神的に悩んでしまうはめになるのです。または、「自分が正しいのだ」という傲慢な態度になってしまって、悪いことをする恐れもあるのです。
ですから、生命に害を与えるべきではない、という言葉よりも、自我の錯覚を破ることが欠かせないのです。
二つに分けてみましょう。自我意識のある人が、「生命に害を与えるべきではない」と説く。それは、事実なので真理です。もう一人は自我の錯覚を破っている。その人も「生命に害を与えるべきでない」と説く。それが勝れた真理です。頭で理解しているか、経験しているのか、という差です。

次にお釈迦さまが道徳を語るのです。

「ただ、この真理を覚って、諸々の生命に対して同情と憐れみを行っているのみです。」

真理を発見してからも真理に従って生きているのだ、という意味です。覚りに達していない人にとっては、道徳・戒律を守ることは厳しい修行になるのです。苦労しながら、自己制御しなくちゃいけないのです。覚りに達した人は、自我の錯覚がないので、自然に楽に生きているが、その生き方が完全に道徳的な生き方になるのです。

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ブッダは真理を語る
テーラワーダ仏教の真理観とその変容 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2015年