施本文庫

ブッダは真理を語る

テーラワーダ仏教の真理観とその変容 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

テーラワーダ仏教の真理観

ブッダの真理を重んじる

「初期仏教における『真言』とは?」というテーマでお話しするにあたって、はじめに、私たちが実践するテーラワーダ仏教(上座仏教)の真理観について説明する義務があります。

テーラワーダ仏教と名乗っている私たちは、お釈迦さまの教えを学んで実践するグループです。「真理」は、パーリ語(お釈迦さまがお話しになった言葉)で「sacca(サッチャ)」といいます。
テーラワーダ仏教では、お釈迦さまの言葉はすべて真理であるということを徹底的に納得しています。私たちのこの姿勢について、「納得というよりは信仰しているのではないか」と思われることもあるでしょう。確かに、厳密に調べると、微妙に信じているところもないとはいえません。しかし、経典を読んでみると、信じていなくても「ああ、なるほど、そういうことか」と納得がいくのです。

私たちは、ブッダの真理に納得していて、ブッダの言葉だけでなく、真理・真実を語る言葉を大切にします。逆にいえば、真理・真実の言葉以外はすべて間違っている言葉だととらえています。

何にでも真理はある

では、「真理」とはいったい何でしょう。「真理の言葉」とは、いったいどれぐらいあるのでしょうか。

たとえば、殺人事件の場合にも真理はあるのです。「犯人は誰か」ととことん調べ、まぎれもない、100%はっきりとした証拠を見つけた上で犯人を逮捕し、本人も「私がやりました」と認めたなら、「これが事実だ」となりますね。
この「事実がわかる」ということ、それは「真理を発見した」ということなのです。

真理を発見すれば、それ以上、調べる必要はありません。あとは裁判で判決を出すだけです。
つまり、真理というのは、「見つかったら、もう問題は解決」というものなのです。それ以上、悩む必要も調べる必要もないのです。

このように、どんな問題についても、どんなことについても、真理はあります(この場合、真理というのは「事実」という意味になります)。
私たちはいつでも、本当の姿、ありのままの姿をとらえ、「真理」を理解しなくてはいけないのです。

学者たちも真理を探している

科学者や歴史学者をはじめ、学者たちが何を調べているかといえば、「本当のこと」を調べています。結局は「真理を探す」ということをしているのです。

しかし、私が個人的に見たところ、歴史の八割はでっち上げです。たとえば日本の歴史にしても、語られるのはごく一部の、何かものすごいことをやった人のことだけです。
百万人に一人もいないくらい数少ない、とんでもないことをした人だけを「歴史に残る人物」などといって派手に紹介するだけですから、歴史を学んでも一般の日本人がどのように生きてきて、どのように生活して、どのように過ごしていたかということは全然わかりません。ですから、大目に見ても、歴史の七割は嘘ではないかということになります。

ですが、建前としては、歴史学者は本当のことを探しています。地理学者は、地球の本当の状況はどうなのか、探しています。科学者は、自分の研究分野について、本当のことは何なのかと探しています。

科学は真理に至っていない

科学は毎日、発展していますね。そして、いろいろなことがわかりはしますが、まだ、真理を発見していません。まだ曖昧(あいまい)で中途半端です。終わっていないのです。科学に関する記事を読んでも、「科学的にいろいろ変わりました」とはいうものの、「わかりました、こうですよ!」とはなりません。

一時期、アインシュタインによる「物質の最高速度は光の速度である」という相対性理論に反して、ニュートリノという素粒子は光より速く飛ぶかもしれないということが話題になりました。
後日、その実験結果に間違いの可能性が浮上し、いずれにしても、結論は今後の研究にゆだねられることになっています。証明するための実験は、巨大なHadron Colliderという衝突型加速器を使ってニュートリノを発生させてつかまえなくてはいけないという、かなり難しいことのようです。ニュートリノは、「光年」という単位になるほどの厚さの鉛でも通過してしまう物質だといいますから、つかまえるのは至難の業でしょう。

このニュートリノの話題は一例です。これまでの理論をくつがえすような新事実が発見されれば、あらためて検証し、場合によっては新しい理論が打ち立てられます。
つまり、科学はまだ真理を発見していないのです。真理を発見しようと、研究を進めている段階なのです。真理を発見していないうちは、ずっと改良して、改良して、新しい考え方を作って、作っていくことになります。

「科学の発展」がある未熟な段階

皆さんは科学をすごく信仰しているでしょう。たとえば、お医者さんの言葉は信頼しますね。「あなたの病気にはこの薬だ」と言われたら、全部しっかり飲むでしょう。
しかし私たちは、実際にはずっと曖昧な、いいかげんな科学、医学の中で生きています。それまでたくさんの人が十年、十五年と使っていた薬でも、何か問題が見つかれば、その時点からあっさり禁止になったりもするのです。

手術にしても、100%安全な手術などというものはありません。虫垂炎でも、お医者さんに「先生、この手術は100%、安全ですか?」と聞いてみれば、「九割は大丈夫」という程度です。もしその一割が当たったらどうしましょう、という話です。

私たちは曖昧で中途半端な世界に、何とか生きています。東日本大震災時の原発事故直後、日本政府は作業員の被ばく線量の上限をそれまでの100ミリシーベルトから250ミリシーベルトに引き上げました。事故後約半年でまた以前の基準値に戻しましたが、都合上、基準値を変えたのです。
あるいは年間20ミリシーベルトを避難区域の設定基準としていますが、その基準値にしても、政治的・経済的な事情があって、主観で決めた数字でしょう。本当に安全かどうか、何の根拠もないのです。
それなのに科学者は、「普段から人間の身体には放射線が入っている」「セシウムのその程度の被ばくによって、明確に病気になるとはまだ科学的に証明されていない」などと平気で言います。そんなことを信じたら、私たちは堂々と放射性物質を取り入れなければいけなくなってしまいます。

真理を探し求めている科学者にしても、いまだにそんな状態なのです。状況が変わるたびに、言うことをすぐ変えなくてはいけなくなります。それを我々は「科学の発展」と呼ぶのです。

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ブッダは真理を語る
テーラワーダ仏教の真理観とその変容 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2015年