ブッダは真理を語る
テーラワーダ仏教の真理観とその変容
アルボムッレ・スマナサーラ長老
第四の勝れた真理
Puna caparaṃ, paribbājakā, brāhmaṇo evamāha – nāhaṃ kvacani kassaci kiñcanatasmiṃ na ca mama kvacani katthaci kiñcanatatthī’ti.
Iti vadaṃ brāhmaṇo saccaṃ āha, no musā.
So tena na samaṇoti maññati, na brāhmaṇoti maññati, na seyyohamasmīti maññati, na sadisohamasmīti maññati, na hīnohamasmīti maññati.
Api ca yadeva tattha saccaṃ tadabhiññāya ākiñcaññaṃyeva paṭipadaṃ paṭipanno hoti.
遊行者のみなさん、また次にバラモンがこのように言います。「私というものはどこにもない、私は誰のものでもない、私といえる何ものもない、また、私のといえる何ものもない。」
このように言うバラモンは真理を語っています。偽りを言っているわけではありません。
彼はこれによって、自分は沙門である、と想わない。バラモンである、とも想わない。(他人より)勝れている、と想わない。(他人と)等しい、とも想わない。(他人より)劣っている、とも想わない。
ただ、この真理を覚って、何もないという境地に達している、ということを行っているのです。
Kvacani kassaci kiñcanatasmiṃという三つの言葉は、別々に日本語訳することが難しいです。意訳するならば、「私、という言葉で意味するもの、指すものは、全くありません。」とするしかないのです。
例えて言えば、兎の角、亀の毛、空に咲く花です。宗教家が言う、自分という確実な存在がある、という話の反対になります。
まずahaṃ私が、という主語になる単語を使っているのです。このフレーズを別な言葉で意訳するならば、「《私が》という言葉は、兎の角のようにあり得ない、中身のない単語に過ぎない」となります。兎もいるが、角もあるが、兎の角は無いのです。
また宗教家は、主に絶対的神を語る人々とバラモン教は、人は神に作られた存在か、神の分身かである、と言うのです。その考えも、mamaという語(目的格)で否定しているのです。要するに、自我は存在しない、錯覚だという話です。たとえ錯覚であっても、自我の錯覚を引き起こすために必要な証拠はひとかけらもないのです。これも一切の現象は無常である、という意味と同じなのです。ただ、自我ばかりを他宗教が強調するので、それは成り立たないことを説かれているのです。
ものごとを現代科学的に考える人々の中でも、自我はない、すべて物質だ、死んでから物質は物質に還るだけだ、という人もいるが、それは頭で考えて言うだけで、経験して、発見して、言っているのではないのです。最終結論ということにはならないのです。彼らも自我意識で相当悩んでいるのです。心が汚れているのです。
しかし、覚りに達した人は、その経験に達しているので、一切の悩みから解放されているのです。「何もないという境地」とは、涅槃のことです。解脱を感じつつ、清らかな心で何の概念にも悩むことなく、楽に生きるのです。
概念に悩むことで、心が汚れるのです。心が汚れないようにするのは道徳です。この道徳も、一般人には守ることが無理です。覚りに達した人は、自然にその境地に達しているので、完全たる道徳的な人間になるのです。
Imāni kho, paribbājakā, cattāri brāhmaṇasaccāni mayā sayaṃ abhiññā sacchikatvā paveditānī ti.
遊行者のみなさん、これらの四つの優れた真理を私は智慧で覚っており経験して宣言しています。
一、一切の生命は害を与えてはならないものである。
二、一切の欲は無常である、苦である、変化するものである。
三、一切の存在は無常である、苦である、変化するものである。
四、私というものはどこにもない、私は誰のものでもない、私といえる何ものもない、また、「私の」といえる何ものもない。
という四つは、バラモンの真理だと説かれていますが、結局はお釈迦さまが覚りに達した真理のことです。バラモン人には、何の関係もないのです。解脱に達した人に対して、「その人こそが真のバラモンである」と説かれているので、仏教から見れば、バラモンとは《解脱に達した人》のことです。
この施本のデータ
- ブッダは真理を語る
- テーラワーダ仏教の真理観とその変容
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2015年