ブッダは真理を語る
テーラワーダ仏教の真理観とその変容
アルボムッレ・スマナサーラ長老
ブッダの言葉とは
オープンチャレンジ宣言
ブッダはご自分の教えについて、一:序盤も素晴らしい(初善)、二:中盤も素晴らしい(中善)、三:終盤も素晴らしい(後善)と説かれました。
初めから終わりまで、欠けることは何もなく、完璧に解き明かされている、という意味です。
この教えは有意義である、修辞文辞においても問題はない、欠点が一切ない完全な教えである、とも説かれています。
ふつうの知識人なら、自分の教えに対してどこまでも謙遜的で、控えめの言葉を使いますから、ブッダの自賛はあまりにも過剰ではないかと思われるでしょう。この世には、神の言葉ゆえに絶対的事実だと言われている文献もありますが、その内容のあらゆる矛盾、間違った概念などは、現代知識人によっていとも簡単に暴かれています。
知識がどこまで発展してゆくか分からないこの世では、いま私たちが事実だと思っていることがらも、あっけなく覆されるのです。ブッダさえも、人に自分の意見を発表するときは「これは事実です。真理です」と言わずに「これは事実だと、真理だと、私は思います」といいなさい、そうすれば真理を守る人になるのだ、とアドヴァイスするのです。
他人にそのように説くブッダが、ご自分の教えに対して、いまだかつて人間が言い及ぶことすらなかった独尊的な修飾語を使っている。どう見てもこの口調はまずいのです。誰か優れた智慧ある人が、証拠に基づいて、ブッダの説かれた教えが事実ではないと証明したならば、そこでブッダの教えに終止符が打たれてしまうのです。
この危険性を知っていたからこそ、ブッダは断言的な言葉で「自分の教えは真理だ」と説かれたのです。
次にまた、ブッダはすべての生命に挑戦されたのです。「自分が説いた真理に『そうではない』と異議を唱えられるものは、沙門もバラモンもマーラ(悪魔)も神も梵天もその他の生命も含めて、誰もいません」と。「いま現在いません」という但し書きもありません。過去においても、現在においても、将来においても、ブッダの説かれた教えは真理以外のなにものでもないと、時間的なリミットも破っているのです。
ブッダはご自身の教えについて「来たれ見よ」と宣言されました。これはオープンチャレンジ宣言です。誰にでもブッダの教えを調べて、研究して、他の事実と比較して、正しいか否かを確かめてみる自由があるということです。
しかしブッダの教えから、微塵でも間違いを見つけることは、いまだ誰にもできずにいるのです。
理性を完成したブッダ
ある日、ブッダはこのように説かれました。
比丘たちよ、隠したほうが効果があり、あらわにすると効果がなくなるものが三つある。その三つとは何か。
女性(の身体)は隠したほうが効果があり、あらわにすると効果がなくなる。
バラモンたちの呪文は隠したほうが効果があり、あらわにすると効果がなくなる。
邪見は隠したほうが効果があり、あらわにすると効果がなくなる。比丘たちよ、あらわになると輝き、隠されると輝かないものが三つある。その三つとは何か。
増支部三集百二十九 アングッタラ・ニカーヤI・282
月はあらわになると輝き、隠されると輝かない。
太陽はあらわになると輝き、隠されると輝かない。
如来の説かれた真理と戒めは、あらわになると輝き、隠されると輝かない。
不完全で正しくない教えなら、あまりおおやけにさらさないほうが無難でしょう。しかし真理は、太陽のように、月のように、あらわになったほうが、自分の力を発揮して輝くでしょう。
理性を完成したブッダは、理性のある人なら誰も「自分の言うことは絶対的に正しい」などと言わないことを知っていたのです。インドでは獅子(ライオン)を百獣の王と呼びます。獅子が吼えるのは「我ひとり偉い」と他の動物たちに知らしめるためだと、信じられていたのです。
そこでブッダは、自分の言葉は獅子吼であると公言されているのです。中部経典第十一に『小獅子吼経』があります。その要点を述べれば、ブッダの教え以外は真の宗教にならない、という獅子吼です。
「第一の沙門も、第二の沙門も、第三の沙門も、第四の沙門も、釈尊の教え以外、他の教えのなかにはいない」と。沙門とは、修行者でもあり、修行によって覚りに達した者でもあります。獅子吼のわけは、この経典に説かれています。
短いあいだブッダのところで出家し、喧嘩して還俗したスナッカッタという人が、ブッダを批判してこう言いました。「ブッダは、論理的に構成しながら説法しているだけです。真理を発見しているわけではありません。しかし、彼が言うとおりにやってみると、結果は得られないとは言えない」と。
この話がブッダの耳に入りました。ブッダは、「この愚か者は、人を批判することさえも知らないのだ。私を批判しようと思って、結局は褒め称えているのだ」と仰ったのです。
真理を発見することをしないで、理屈だけ羅列して語っていると言われたことは、ブッダに対するひどい侮辱でした。ブッダは、自らが一切のものごとを知り尽くしていること、達するべき境地に達していることを、また獅子吼されたのです。その教えは如来十力という名でまとめられ、中部経典第十二『大獅子吼経』に記されています。
ブッダ以外、誰にもできない
「そこまで言うならばありがたい教えでしょう」と、ブッダの教えに無関心になってはいけません。ほんとうにブッダが真理を語ったのか、誰にも異議を立てられないものなのか、世の中にある他の宗教家の教えと似ているものか否か、実践すれば約束どおりに幸福になるものか否か、などなどについて、勇気を出して挑戦するべきです。
仏教をかみくだいて批判すると、バチがあたるなどと思う必要はまったくありません。仏教では、「この教えを侮辱したら地獄に堕ちる、頭が七つに割れる」などの脅しは一切なし。「まず信じなさい」という条件もなし。
よく理解しないで仏教を信じることも、盲信だと退けているのです。
仏教を学ぶ人々は、教えを自分なりに理解することになります。しかし、それは完全な理解にはならないのです。実践して真理を体得する人は、完全に理解します。知識で仏教を理解する人々は、自分の理解を他の人々に教えるために、本を書いたりするのです。自分に理解できなかったことについては、何も語れません。しかし、自分が理解したことを他人に示すことは、自由です。
われわれが憶えておくべきポイントは「真理を完全に語りつくすことは、ブッダ以外、誰にもできない」ということです。完全に語られた教えをさらに改良する、ということは成り立たないのです。仏教を改良改革しようとすると、結果として完全な教えが壊れてしまいます。不完全な教えなら、他の人々に欠けている部分を付け加えることができるのです。
仏教が世に現れて以来、二千五百五十余年にわたって、たくさんの人々が(大乗)経典を書いてみたり、論書をまとめたり、注釈書を作ったり、その時代の要求に応じて解説したりと試みてきました。
この素晴らしい業績のおかげで仏教は、欲望と無知に陥っているこの地球から消え去ることはなかったのです。いままでブッダの教えを分かりやすく伝えてきた知識人や学僧たちの業績は偉大ですが、彼らにブッダが説かれた元の教えより優れたことは語れなかったことも事実です。
仏教の世界でよく見られる現象は、ブッダの説かれた教えの一部を徹底的に開発して、ひとつの学派、ひとつの宗派を創設することです。そうやってできた諸宗派のあいだでは、一貫性がないのです。互い違いに教えを語る宗派が仏教のなかで増えていくと、困るのは一般の方々です。ブッダの教えとして誰の教えが正しいかとわからなくなって、仏教を信じることができなくなるのです。
幸福になる正しい道
私たちがブッダの元の教えを学ぶならば、仏教に対するさまざまな疑問が解けるのです。ブッダは時代を超えて、どの時代の人々にも簡単に理解できるように、簡単に実践できるように語られました。時代が変わって世界が発展すると、それまで社会にあったさまざまな考えかたが、古い間違ったものとして捨てられることになります。
しかし、時代が変わっても、世界が発展しても、ブッダの教えはまさに太陽のごとく輝いています。いつでも、どんな人にでも、有効な教えであり続けています。幸福を目指す人々に、幸福になる正しい道を解き明かされています。
幸いなことに、ブッダの語られた教えは、ほぼオリジナルな形でパーリ語で残されています。パーリ語で書かれた元の仏説を現代日本語で読むことができるわれわれ現代人は、たいへん恵まれていると思います。
ブッダは、わたしたちの心に直接語りかけるのです。一人息子を大切に思う親切な父親のごとく、やさしいまなざしで私たちの幸福を期待して、慈悲にあふれた言葉で語るのです。
厳しく言うべきところは厳しく、やさしく言うべきところはやさしく、励ますべきところは励まし、戒めるべきところは戒めて、語るのです。
ブッダの言葉を読んで理解する人は、一切の生命をこの上なく心配する、偉大なる父親と出会った気分になれます。「ブッダの言葉」に触れる人はみな、心が清まり、精神的な安穏を得られるのです。
この施本のデータ
- ブッダは真理を語る
- テーラワーダ仏教の真理観とその変容
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2015年