ブッダは真理を語る
テーラワーダ仏教の真理観とその変容
アルボムッレ・スマナサーラ長老
第二の勝れた真理
Puna caparaṃ, paribbājakā, brāhmaṇo evamāha – sabbe kāmā aniccā dukkhā vipariṇāmadhammā’ti.
Iti vadaṃ brāhmaṇo saccamāha, no musā.
So tena na samaṇoti maññati, na brāhmaṇoti maññati, na seyyohamasmīti maññati, na sadisohamasmīti maññati, na hīnohamasmīti maññati.
Api ca yadeva tattha saccaṃ tadabhiññāya kāmānaṃyeva nibbidāya virāgāya nirodhāya paṭipanno hoti.
遊行者のみなさん、また次にバラモンがこのように言います。「一切の欲は無常である、苦である、変化するものである。」
このように言うバラモンは真理を語っています。偽りを言っているわけではありません。
彼はこれによって、自分は沙門である、と想わない。バラモンである、とも想わない。(他人より)勝れている、と想わない。(他人と)等しい、とも想わない。(他人より)劣っている、とも想わない。
ただ、この真理を覚って、もろもろの欲(煩悩)を厭う、離れる、滅ぼすことを行っているのです。
sabbe kāmā すべての欲は、
aniccā 無常である。
dukkhā 苦である。
vipariṇāmadhammā 変わるものである。
心に入る情報は六つあります。眼に入る色、耳に入る声、鼻に入る香、舌に入る味、身体に触れる感触、意のなかで回転する概念です。それらによって、心が汚れてしまうのです。欲、怒り、嫉妬、憎しみ、恨み、後悔、傲慢、自我などの汚れ(煩悩)が生まれるのです。一切は無常であると覚ってないのです。見えた花が「存在するものだ」と想うのです。花がきれいだと認識すると同時に、花に対して欲の感情も生じるのです。
花はきれいだと認識しても、無常で苦で変わるものだと覚っているならば、欲の感情が生まれないのです。ですから、すべての現象が無常で、苦で、変化するものである、と発見することで、心が清らかになるのです。すべての現象は無常であると発見するならば、変わらない実体として自分が存在しているのだ、という自我の錯覚は、当然、消えてしまうのです。
ですから、その人は「私は真の沙門だ」云々と想わないのです。他人と比較することもないのです。生きている上で、みなと同じものごとを見たり聞いたりするのです。食べ物などを味わったりもするのです。しかし、心は汚れません。
「無常」ということも、常識的な真理のように思ってしまうのです。我々は何かに比較して、無常だ、と理解するだけです。「花はすぐ散るので、はかないものだ」という場合は、花より長生きする他のものと比較しているのです。論理的に言えば、無常でない、変化していないものに比較して、無常だと言うのは一般的な考えです。
すべては無常ですが、霊魂だけ永遠だと言う人は、いくらでもいます。しかし、霊魂を体験した人、実感した人、発見した人、一人もいません。我々が無常という場合は、一度でも発見していない、実証していない、経験したこともない巨大な妄想概念に比較しているのです。
「新幹線が速い」。このフレーズを考えてください。気づいていないが、他の電車に比較しているのです。これは現実ですから問題ありません。すべては無常だと一般人が言う場合は、気づいていないが、必ず、永遠不滅という概念が隠れていて、それに比較しているのです。永遠不滅とは、巨大な妄想です。しかし、覚りによって無常を発見すると、永遠不滅だと勘違いしている自我の錯覚が消えるのです。
この無常という真理には、道徳的なニュアンスを感じないでしょう。しかし、智慧と道徳は不可分離です。
無常を発見した人は、心の悩みも何もなく気楽に安穏に生活をしているが、心が汚れないのです。心を汚れないようにすることも、道徳行為です。一般人は苦労するところですが、真理を発見した人は、自然に完全な道徳的な人間になるのです。
第三の勝れた真理
Puna caparaṃ, paribbājakā, brāhmaṇo evamāha – sabbe bhavā aniccā…pe… bhavānaṃyeva nibbidāya virāgāya nirodhāya paṭipanno hoti.
遊行者のみなさん、また次にバラモンがこのように言います。「一切の存在は無常である、苦である、変化するものである。」
このように言うバラモンは真理を語っています。偽りを言っているわけではありません。
彼はこれによって、自分は沙門である、と想わない。バラモンである、とも想わない。(他人より)勝れている、と想わない。(他人と)等しい、とも想わない。(他人より)劣っている、とも想わない。
ただ、この真理を覚って、一切の存在を厭う、離れる、滅ぼすことを行っているのです。
Sabbe bhavāとは、一切の存在のことです。天国、人間界、地獄などの言葉があります。天国と地獄は死んだ人が往くところだというのです。
仏教の場合は、生命が死んでから往くところは五道というのです。五道とは、地獄、畜生、餓鬼、人間、天界の五つです。
他宗教では永遠の天国と永遠の地獄の話がありますが、どうも中間を妄想するほどの能力はないのです。短い人生の結果として、天国で永遠にふざけるか、地獄で永遠に苦しむか、どちらかです。割りに合わない話です。
しかし、すべての物事は無常です。善い行為をして永遠の天国に生まれると信じていても、残念です。邪見を持つと天国の門が狭くなります。しかし、善行為をする人は天界に生まれますが、そちらの寿命が終わると、死ななくてはならないのです。
「人を殺しても悔い改めればOKだ、神を信仰すれば永遠の天国に往けるのだ」、という人々は、「神を信仰しない人、神を冒涜する人は永遠の地獄に堕ちる」と、誇らしげに無知な人々を脅していますが、まったく心配ありません。
仏教も悪行為をすれば不幸な処に堕ちるのだと説かれていますが、地獄も無常です。たとえ罪を犯して堕ちても、その罪の力が消えたら、そこで死にます。別なところに生まれます。
真理を覚った人は、どんな次元でどのように生まれても、いまの人生と同じく無常で変化するので、何処かに生まれたいと期待することは無意味だと発見するのです。それも自我の錯覚を破ったことです。自我があると勘違いしている人は、死を怖れ、何処かに生まれたくなるのです。
すべての存在は無常だという真理は、一般論にはなりません。我々が何でも無常だと言うのは、この世の中のことです。一般の人は、死後があるとも無いとも、分かっているものではないのです。
あると言っても、無いと言っても、妄想概念以外、信じること以外、何でもありません。
天国に生まれたいという気持ちも、渇愛であり欲望であり煩悩なのです。渇愛・欲望によって心が汚れないようにすることが道徳です。この道徳を守ることは一般人には無理です。
しかし、真理に達した人は常に何処にも生まれたいという気持ちはないので、完全たる道徳的な人間になるのです。
この施本のデータ
- ブッダは真理を語る
- テーラワーダ仏教の真理観とその変容
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2015年