ブッダは真理を語る
テーラワーダ仏教の真理観とその変容
アルボムッレ・スマナサーラ長老
唯一の神が在るかもわかっていない
今、世の中では、「本当の唯一の神様はアラーさんかエホバさんか」ということが、大きな問題になっています。アラーが唯一の神様だと思っている人々は、エホバを信仰する人々に対し、テロをやったり、殺したりもします。また、エホバが本当の神様だと主張する人々は、空から爆弾を落としてアラー支持者を殺したりもしています。世界は戦争が絶えない状態です。その理由はというと、アラーが唯一か、エホバが唯一か、まだ決着していないからです。
「真理」というのは、「はい、それで問題は解決」というものです。「真理」にたどり着けば、答えはシンプルになります。神様については、「それはパクリだ」と理解すればいいだけです。昔のユダヤ人たちの誰かがいいかげんに書いたテキストがあり、それをパクっているだけ。そんなに難しい話ではなくなります。
しかし、神に対する真理に達していない段階なので、いまだに中途半端で、曖昧で、いいかげんですから、信じるしか道がないのです。「よくわからないから、信じよう」という「信仰」なのです。
選挙のときに、自民党に投票するか、民主党に投票するかを決めるのと同じことです。結局は政治論ではなく、その立候補者を知っているとか、隣の村の人だとか、高校が同じだとか、何となく気持ちで票を入れるでしょう?
神にしても、気分で自分の神を決めるしかない段階なのです。
神への信仰と異なる仏教の「信」
テーラワーダ仏教の場合、「わからないから信じる」ということはあり得ません。テーラワーダの世界はものすごく理屈っぽいのです。たとえ神秘的な神々の信仰にしても、何か証拠を探します。神々をまるっきり信じない人々もけっこういますし、信仰する人もいますが、むやみやたらと信じ込むわけではありません。
テーラワーダ仏教国の一つであるスリランカにも、いろいろな地方の神とか、山の神などがいて、日本と同じく神々信仰があります。そして、何かを神様に頼むときに、約束します。
「うちの子どもの病気を治してください。もし治してくださったならば、これぐらいのお供えをします」といって、約束のしるしとして十円ぐらいの貨幣をきれいに洗って布で結んで帰ってくるのです。そして、子どもの病気が治ったら、「神様に約束を果たさなくては」といって、きちんとお供えを持っていきます。もし治らなかったら、「あいつに頼んだのに、何もやってくれない」などと文句を言ったりもするのです。
スリランカの人々の神々に対する信仰は、宗教が要求する信仰とは違います。国の政治家が国民に対する約束を果たさなかったら、批判されますね。それと同じく、スリランカ人が信じる神々も、信じる人の頼みごとを聞かなかったら何の躊躇もなく批判されます。
スリランカ人の神々の信仰は、仏教の「信」と似ているのです。テーラワーダ仏教は、やはり三宝(仏・法・僧)を信じるということからはじまります。
「信じる」というその言葉だけをとらえたら、「では、やはり宗教が語る信仰と同じではないか」と思えることでしょう。しかし、それは違います。テーラワーダ仏教の「信」は、師弟関係の「信」なのです。
たとえば、大学に入るときに「いろいろなことを知っている先生方が教えてくれるだろう」と期待しますね。「知っているだろう」と信じるわけですが、それは根拠のある信仰、つまり「信頼」です。
もし、教授たちが「ただのそこら辺にいるおじさんと何の変わりもない」と思ったら、その学校に入りません。仏教は、この例でいう教授たちをありがたく思う気持ち、「信頼」がなければ成り立ちません。
どんな大学に入りたいか、どんな研究室に入りたいか、自分の進路を決めるためには、学生はいろいろ調べるはずです。調べた結果、ある大学を信頼し、自分が学びたいと思う分野の教授が適任だと信頼し、志望することに決めます。
むやみやたらと、盲目的に「ここがいい!」と信仰するわけではありません。
また、進路を決める場合は、大学も教授も学生を脅しませんが、宗教の場合は、神が「自分を信仰しなさい」と人を脅すのです。つまり、信仰と違って「信・信頼」は、いろいろとデータを調べた上で達した結論になるのだと、ご理解いただけると思います。
お釈迦さまが推薦するのは、信仰ではなく「信・信頼」です。そして、仏法僧に対する信頼にも順番があるのだと説かれていらっしゃいます。
「まず話を聞きなさい。それから、何を言ったのか、話の中身を観察しなさい。それから、その意味をものすごく吟味してください。それから照らし合わせてみてください。それで、あなたは納得するのだよ」と。
相手の言っていることに「ああ、その通りだ」と納得するなら、そこで「信」が生まれ、「先生、お願いします。教えてください」となるという、そういう順番だと教えています。論理的でしょう?
神を信じる類の信仰は、仏教ではamūlikā saddhāといいます。groundless faith「根拠のない信仰」です。
仏法僧を信じることは根拠のある信samūlikā saddhāです。お釈迦さまは、ākāravatī saddhāという言葉を使います。
ākāravatīというのは、さまざまなデータに基づいて推測する結論のことです。科学でいえば、仮説です。実験の前にはかならず仮説を立てるでしょう。科学は、勝手に仮説を立てたりはしません。一つの仮説を作るために相当研究します。研究して計算して「おそらくこうなるでしょう」と仮説を立てて、それから実験をします。
仏教の信仰というのは、科学でいう仮説なのです。
この施本のデータ
- ブッダは真理を語る
- テーラワーダ仏教の真理観とその変容
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2015年