ブッダは真理を語る
テーラワーダ仏教の真理観とその変容
アルボムッレ・スマナサーラ長老
ブッダが語った、生きるとは何か
真理は人の悩み、苦しみ、恐怖感をなくすのです。真理とは、とてもありがたいものです。
では、ブッダが語った真理とは何か。それは「生きるとは何か」という質問の答えなのです。
「生きるとは何か」「生命とは何か」「命とは何か」、質問はいくらでも増やせます。「何のために生きるのか」「生きることに何か目的はあるのか」「私って誰ですか」などということは、誰も知りません。
偉そうに「私、私」と言うのですが、「私って本当は誰?」という質問に、真面目に答えてみてください。
私が皆さんに「あなたは誰ですか?」と尋ねると、とんでもない答えが返ってきます。名前を答える人もいますし、「○○会社の○○の仕事をしている人です」などと言ったりもします。
たとえば「あなたは誰ですか?」と尋ねられて、「○○の妻です」というふうに返事したとします。もし、五年ほど経ってから、また「あなたは誰ですか?」と聞いたとき、離婚していたら別なアイデンティティを言わなくてはいけなくなりますね。
時と場合で変わるものは真理ではありません。いまだに我々は「私は誰ですか?」という質問の答えを知らないのです。
お釈迦さまは、「生きるとは何か」ということの答えを発見されました。ただの答えではなく、真理を発見されたのです。そして、生きることに関連して生まれる一切の悩み、苦しみ、恐怖感がきれいさっぱり消えてしまいました。それが仏教の教えなのです。
仏教をよくご存じの皆さんが聞き飽きてしまっている、苦しみをなくすため、解脱するためのあれやこれや。それがお釈迦さまの真理です。
生きるとは苦だと発見したけれど
お釈迦さまは、発見した真理を明確にまとめて、四つにして語られました。「四聖諦」です。一言でいうならば、生きることはどうということはない、ただ「苦」だけですよ、ということです。
しかし、私たちはこれを絶対に理解したくないのです。お釈迦さまも、発見した真理を誰かに話す気はありませんでした。「こんなことを言っても、真理だけれど誰も理解したくはないだろう」と、わかっていたからです。
我々は、昔の教会の方々と同じです。「地球は丸い」と言われても、絶対に認めたくないのです。「人生は苦」だと言われて、「そんなバカな!」という態度をとります。
今もそうでしょう。たとえば、カトリック教会の神父さんたちが「結婚を認めてくれ」と言っても、バチカンは「絶対に認めません」と言います。私は「あなた方が神父さんたちに結婚してはいけないと言っているのは、どんな根拠でそう言うのでしょうか?」と聞きたくなります。根拠は何一つないのです。私ははじめから終わりまで、聖書を読み込んでいますが、ジーザスはたった一回でも、「結婚してはいけない」などとは言っていないのです。ジーザスにも奥さんはいましたしね。新約聖書には、他人の奥さんに目を凝らすな(見るな)とはありますが、結婚するなとは一言も書いてありません。
それなのに、現代人が「今の社会では神父さんの成り手がほとんどいないし、神父さんたちが聖職者であるにもかかわらず、性犯罪まで犯してしまう結果になるので、結婚ぐらい認めましょうよ」と言っても、バチカンは認めません。
お釈迦さまも、立場は逆ですが同じ問題にぶつかりました。「真理を語りたいのだけれど、誰も認めるわけがないだろう」ということです。
「生きることは苦である」と言ったとたん、我々は洗脳されているので、「生きることは尊い、ありがたいことだ。一つしかない命だ」と言いはじめます。本当は、命は無数にあるのに、一つしかない命だなんて、いいかげんで真っ赤な嘘ばかりです。
もし「命は尊い」と言うなら、「尊くないとはこういうことですよ」「こういうポイントで命は尊いのです」と、きちんと説明してほしいところです。
命は「尊い」ではなく「苦」
たとえば、ダイヤモンドがなぜ高価なのかは、説明ができます。石ころみたいにいくらでもあるというものではなく、珍しいし、工業用に使える硬度があります。さらに光り輝いていますから、装飾品としても使えます。
金にしても、価値の高さを説明できます。さびませんし、電気抵抗がものすごく少ないので、宇宙船にかぶせるシートや配線などにも使われています。しかも輝いていますから、装飾品としても使えます。お寺に貼ったのが金閣寺です。銀は一週間でさびますから、貼っても暗くなって意味がなくなりますが、金閣寺は世界遺産になっています。
このように、ダイヤモンドや金の値段の高さには証拠があるのです。では、「命は尊い」ということは、どこに何の証拠・根拠があるでしょうか。証拠も何もないのに、我々はそう思っています。
そして「生きるとは苦である」と、仏教の真理を言うと、真っ先に否定されます。「命は尊い」ではなく「命は苦です」ということを、人間は認めません。
しかし、徹底的に「生きるとは何か」と調べると、「苦」がないと「命」がないということになるのです。「苦」が「命」なのです。
もし、お腹がすいたら、あまりにも気持ちが良くて楽しくなるとしたら、どうなりますか? 絶対に食べないでしょう。ですから、お腹がすいたら苦しくて死にそうになるということになっています。だから食べるのです。
では、食べることは楽しみでしょうか。もし、食べることが楽しみだったら、ずっと食べてしまえばいいでしょう。しかし、ずっと食べ続けたら苦しくて死んでしまうので、そうはしないのです。
道路で信号待ちをしていて、赤信号が青になったら動きだすのも、苦が命だからです。もしも、待っていることが楽だったら、そこから動けません。
このように、我々の命は、ずっといつも「苦」が管理しています。「苦」が「命」で、「命」は苦しみで管理するものなのです。ですから、あるのも「苦」で、続くのも「苦」です。
マーラ(悪魔)が「命ってありがたいものだ」と、ある阿羅漢尼に言いました。それに対して、「あなた、何を言うのか。現れるのは苦だよ。いるのも苦だよ。なくなるのも苦だよ。何がありがたいと言うのか。帰ってくれ」と答えた偈があるのです。
Dukkhameva hi sambhoti
Dukkhaṃ tiṭṭhati veti ca
Nāññatra dukkhā sambhoti
Nāññaṃ dukkhā nirujjhati
Saṃyuttanikāya, Bhikkhunīsaṃyutta(S.1.196)
生まれるのは苦である。
あるのも苦である。消えるのも苦である。
苦以外生まれるものはない。
苦以外消えるものもない。
相応部詩偈相応比丘尼の章
この施本のデータ
- ブッダは真理を語る
- テーラワーダ仏教の真理観とその変容
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2015年