ブッダは真理を語る
テーラワーダ仏教の真理観とその変容
アルボムッレ・スマナサーラ長老
神秘主義による変容
ブッダの真理を認めたがらない
私たちは、お釈迦さまが説かれたものは、瞑想法であろうが修行法であろうが、「真理の言葉」だととらえます。なぜかというと、結果が出るからです。結果が出るのが「真理」なのです。真理の結果を出す力は、まぎれもない事実です。
もし、「無差別殺人を起こした犯人が逃走中だ」と言ったら、みんな怖くなりますが、「犯人が捕まった」と聞けば、我々は落ち着くでしょう。これも一つの真理なのです。はっきりわかれば、問題はだいたい解決します。法律の世界もそうですし、日食や月食を例に説明した科学世界でも同じです。あるいは、料理の世界でも、たとえばゴーヤは苦い野菜でしょう?苦い野菜を食べられる方法はないのかと考え、ゴーヤチャンプルにするなど、いろいろな方法が見つかりますね。調理法によって何の苦味もなく食べられるようになれば、それで問題は解決です。
お釈迦さまの真理の結果は、「生きること」の分野に表れます。生きることから生まれてくる一切の苦しみを一発で消す力があります。テーラワーダ仏教は、これを伝えているのです。
一般の人々は、「生きることは苦」ということをなかなか理解したくはありません。瞼を閉じるのも「苦」だからであるということを、認めたくはないのです。皆さんもそうでしょう? 瞼なんか、とるにたらないものだと思っているでしょう。では、瞼を閉じないようにセロテープを貼ってみてください。五分でじゅうぶんです。どうして瞼を閉じるのか、わかります。そのように実験をしてみてほしいのです。
なぜ皆さん、座っているときはグニャグニャ動いていますか? 「苦しみ」だからなのです。「苦」がないと生きていられません。しかし、誰もそれは認めたくないのです。
人間が現れたときからある神秘思考
誰も「生きるとは苦である」という真理を認めたくありません。認めたくはないのですが、「ブッダの言葉には力がある」「ブッダの言う通りになる」ということは、まぎれもない事実として広がっていきます。これが、世の中の神秘主義と混ざることで、どんどん信仰とつながっていきます。
mysticism(神秘主義)について説明します。人類はすごく神秘主義的なのです。たとえば、原始時代に川に行って魚を釣った場合、捕れる日も捕れない日もあります。捕れる日は「こんなに要らない」というほど余分に捕れてしまいます。捕れない日は、子どもたちがお腹をすかせているのに一匹も捕れません。不思議でしょう? そういうちょっとしたところに神秘的な感情が割り込んでくるのです。
あるいは、雷というのは、昔は何ものかわかりませんでした。メカニズムがわかっている現代でも、稲妻を見ていると何だかいつもとは違う、神秘的な気分になるでしょう。
ブッダが現れる以前、人間が現れたときから、もう神秘思考はありました。神秘思考は、普通の人間の力ではない、特別な力だと考えられました。そこで祈りなどをはじめ、いろいろなことが出てくるのです。たとえば、昔は病気になったらどうしようもないので、神秘の力を使うしかないということで、思いついたことをいろいろ試みます。すると、人間は商売上手ですから、祈禱師たちやら、病気を治す人やらがたくさん現れるのです。
神秘主義へのニーズに応える
どんな国でも、けっこう神秘文化はあります。日本ももちろん、中国にも嫌になるほどありますし、インドは本場です。私たちは、誰も明日どうなるか、わからないでしょう。そこで、「先生、ちょっと占ってください」と、将来を占ってもらいます。星占い、手相占い、人相占い師などが神秘的な世界の専門職として定着していきます。
神秘主義は、あまりにも人間の歴史の根底の部分から続いていますから、ブッダの真理にじわじわと混在していきます。仏教とは、ブッダの完璧な教えですから、改悪はできてもキリスト教と違って改良できないのですが、少しずつ変容していくのです。
神秘主義との関係によって、私たちはどんどん、仏教を変えていくのです。何を隠そう、ホロスコープで占うお坊さんたちもいます。お釈迦さまの純粋な教え、修行から見れば、まったくやってはいけないことをやっています。「何をやっていますか、この連中は」と私もすごく思いますが、なぜそんなことをやるのかというと、やはり一般人に「裏で何か、神秘的なことをやってほしい」というずるい気持ちがあるからだと思います。
誰か、怠け者が「仏教の修行というのは、とてつもなく難しいことだ」「人間には不可能だ」と思い、「それでも死後の問題があるから、裏で何か別なやり方はないのか」と考える……。そういう人間の心がニーズとなって、お坊さんたちまで占うような現象が出ているのですね。
そういう怠け者のニーズに「詐欺師が乗る」と、お釈迦さまはおっしゃいます。「では、南無阿弥陀仏と唱えて、はい、それで終わりということにしましょう」と、なるのです。
ブッダの真理が神秘扱いされる
神秘の力というのは、通常の方法では得られないものを、どうにかして得るための、よく理解できない何か別の力のことです。「祈り」は代表例です。普通に頑張っても子どもが生まれてこない場合は、祈って、別な方法で妊娠しようとするのです。しかし、神に祈って子どもが授かったら、私は「それは誰の子ですか。うちの子だとは言えませんね」という冗談を言いたくなります。神を信じる方々は、畏れ多くてそういう冗談は考えないでしょうけれど。
実際には、妊娠するために必要な条件は科学的に決まっています。祈っても祈らなくても、四年間も五年間、六年間、七年間も妊娠できなかった女性が、突然妊娠に成功する場合はいくらでもあります。そこに祈りなど、よくわからないものを入れると、話がハチャメチャになってしまうのです。
しかし、特別な力で我々の希望、願望を叶えてもらうという神秘文化は、人類に根深くあります。そこにブッダの言葉が現れ、広まったとき、「ブッダの言葉も、すごく力がある言葉だ」ということで、神秘文化のところに一緒に混ぜられていくのです。
この施本のデータ
- ブッダは真理を語る
- テーラワーダ仏教の真理観とその変容
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2015年