ブッダは真理を語る
テーラワーダ仏教の真理観とその変容
アルボムッレ・スマナサーラ長老
神秘のようで論理的な慈悲の実践
ブッダの教えが部派仏教や大乗仏教などに変化していく過程で、ご利益や祈禱などがすごく盛んになって、仏教の目的である解脱は物置に放り込まれました。
例えるならば、アインシュタインの相対性理論は手相占いに役に立つために発見された、というような感じです。
お釈迦さまは神秘主義に反対なさって、ものごとを現実的に観察するべきだと説かれました。しかし、神秘主義者たちの数の力は圧倒的なので、仏教の世界からも、なかなか神秘主義がきれいに消えてなくなることはありません。
お釈迦さまにとっても、この世での幸福を神秘的な力を通して探し求める人々の問題がありました。他宗教が呪文祈禱などで現世利益を得られるのだと謳っている環境で、「呪文祈禱などは迷信だ」と説かれるお釈迦さまが、どうすれば人々は平和で豊かで穏やかに楽しく生活できるのか、説明しなくてはいけないわけです。
しかも一般人は、お釈迦さまに人を幸福にさせる神秘的な力が備わっているのだと信じていました。この信仰は、お釈迦さまにしてみれば困った問題です。お釈迦さまは科学者ですが、大いに期待されるとその問題を解決しなくてはいけない立場です。
そこで、現世利益、無病息災、家内安全、商売繁盛、平和、幸福、安らぎなどにたちまち達する方法を説かれたのです。「慈しみを育てなさい。慈悲の気持ちがあれば、ものすごい力になりますよ」と慈悲の実践を教えました。
「慈悲の実践で皆、幸福に達するのだ」といっても、それは神秘的な力ではないのです。正しく表現すれば「不可思議な力」というところでしょう。なぜなら、しっかりとした理論に裏付けられた方法なのですが、一般の人々が理解するのは難しいからです。
慈悲の実践によって誰もが幸福に達することには、論理的な理由があります。人間の生き方は、他の生命の邪魔をすること、迷惑をかけること、いじめること、害を与えることで成り立っているのです。ですから、一人の生命は他の生命の敵になります。当然、他の生命は皆そろって、この一人の生命を攻撃するのです。これを誰もがやりますから、人は必ず不幸に陥ると決まっています。
この悪循環を、慈悲の実践はいとも簡単に破るのです。一人の生命が他の生命を慈しむのです。その生命の周りにいる無数の生命が、敵ではなく味方になるのです。
「限りのない味方に囲まれていても、幸福に平和に生きていられない」というならば、それは「太陽がまぶしく光り輝いているから、世界は暗黒だ」というようなものです。
ですから「悪霊の怨念をなくすためにどうすればよいのか」といえば、慈悲の実践をすることです。「先祖を成仏させたい」というならば、「慈悲の実践」をすることです。病気を治したい、商売繁盛させたい、仕事の能力を上げたい、ライバルに負けたくない……。要求は何であろうとも慈悲を実践すれば、見事にその願望が叶えられます。
祈っても無駄、慈悲を育てなさい
バラモン人は、死後は梵天に行きたいと思います。そこで祈ります。その行為に対するお釈迦さまの答えは、「川岸まで満杯になっている川があるとしましょう。カラスが水を飲めるぐらい満杯です。その状態で、その川の向こうの岸に行きたいと思うとき、こちらの岸から、『向こうの岸さまよ、こちらにおいでください。あなたはとても素晴らしい方ですよ』などと言ってお祈りをしたとする。それで向こうの岸がこちらに来ますか? 来ませんよ」というものです。「そんなものだ、あなた方は。神様を賛嘆しても、梵天には行けませんよ」とおっしゃっているのです。
危険な此岸から、安全な彼岸へ行きたければ、筏でも作って、手や足などででも漕いで渡らなくてはいけないのです。祈りは無駄です。
死後、梵天に行く方法については、お釈迦さまは次のように説かれました。
最初に「梵天は慈しみを持っていますか? あるいは慈しみはまったくないのですか?」とバラモン人に質問します。バラモン人は「梵天には慈しみがありますよ」と答えます。そこで、「あなた方、梵天と一緒になりたければ、同じ性質を育てなくてはいけない。慈しみにあふれた心の人は死後、梵天に行きますよ」と言って、慈悲の実践をお教えになったのです。
これを神秘思考でばかり考えると、「お祈りをしたり、ヴェーダ聖典を唱えるのではなくて、『慈悲喜捨』を呪文のように唱えれば梵天に行けるのだ」という変な解釈もできますが、お釈迦さまはそんな意味ではなくて論理的なことを説明しているのです。
別の例では、ある森でお坊さんが蛇に咬まれて死んでしまったときの話があります。お釈迦さまにそれを報告すると、「あのお坊さんが生命を慈しんだならば、そんなことにならなかったのに」とおっしゃって、蛇に咬まれない経典を教えます。そう言うと、まるで「蛇に咬まれない呪文」を教えたかのように感じるでしょう。しかし、呪文ではなくて、「慈しみを育てなさい」という経典なのです。
私にも経験があります。蛇が大嫌いな日本人を連れて、スリランカのある道場へ行ったときのことです。森の中の道場を見学しているときに、ふと山の壁面を見ると、その穴の中に蛇の中でも一番性格の悪い、ちょっと誰かを見たら飛び出してくる蛇が寝ているのが見えました。私は、蛇が大嫌いな日本人がそれを見つけたら見学は打ち切りになるに違いないと思い、その蛇が寝ている場所の前に行って、見えないようにしていました。
案内するお寺のお坊さんはしゃべるわ、しゃべるわ……。私は通訳をしていて、けっこう時間がかかりました。隠している蛇は、人間の体温などを感じたらすぐ飛び出してくる蛇なのです。
しかし、私は「こいつは何もしない。グーグーと寝ているだけだ」と知っていました。一応、曲がりなりにも慈悲の実践をしていますから、獰猛な蛇にも「可愛いやつだ」という気分があるのです。慈しみがあれば別に蛇も怖くありませんし、蛇を怖がらない人間が、危害を加えるわけでもなく近くにいるぐらいでは、蛇も攻撃はしないものなのです。
この施本のデータ
- ブッダは真理を語る
- テーラワーダ仏教の真理観とその変容
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2015年