智慧の扉

凝縮された仏教のエッセンス

「智慧の扉」は、機関誌パティパダーの巻頭に毎号掲載されている、スマナサーラ長老による読み切りのコラムです。見開き2ページの短い文章の中に、お釈迦さまの教えがギュッと詰め込まれています。短い時間で読めますので、ちょっとした待ち時間などにも触れてみてください。くり返し読むことで、きっとまた新しい発見があると思います。

新着記事

  • 2022年2月号(183)

他人をジャッジしない修行

 人間はいつでも「我は完璧だ」という態度で生きています。パートナーや子供がわがままだから私は毎日つらいのだ、職場の人々が親切ではないから私は不幸なのだ、という具合に、「悪 […]

  • 2022年1月号(182)

すべての問題を解く鍵

 人生にはいろいろな問題が起こります。しかし、どんな問題にも乗り越える方法があるのだと仏教は言います。なぜならば、いかなる問題も原因があって現れたものだからです。その原因 […]

  • 2021年12月号(181)

人に教えるにはウペッカー(捨)が必要です

 他人を自分の希望どおりに直すことはできません。世界は個人個人で成り立っているのです。人間関係とは、人の個性を侵害せず、平和と調和を保つことです。子育てという仕事を分析す […]

智慧の扉インデックス


2016年12月号

「気づき」で生まれる能力とは?

 現代社会では、仏教のヴィパッサナー実践の一部を「マインドフルネス」として俗世間的に使っています。人間とは面白いもので、仏教ではないならば有難がって飛びつくのです。  お […]

2017年1月号

仏道とは「こころの掃除」です

 マイホーム(my home)という単語があります。日本語で実家という意味とはちょっと違います。実家は親の家ですが、マイホームは、「自分の家」という意味です。みなさんは、 […]

2017年2月号

恩を知る生き方

 パーリ語には「恩を知る」という意味で、kataññū (カタンニュー), katavedī (カタヴェーディー)という単語があります。恩を知るとは、他の生命の助けで生き […]

2017年3月号

「わがまま」を修行に活かす

 俗世間でも、ブッダの教えでも、一般的に「わがままは良くない」と戒めています。しかし、誰にでもあるこの「わがまま」という精神を修行に使う裏技があるのです。いつでも自分の幸 […]

2017年4月号

「正見」とは見解がないこと

 意見・知識・見解とは、存在欲を支えるものです。私たちは「この人が言っていることはおかしいぞ」「あの人の意見もおかしいな」「この人の知識レベルは少しマシだ」「あの人の見解 […]

2017年5月号

命は儚い、死は確実

「死」という現実をそのまま観察する死随観は、お釈迦さまが推薦する冥想のひとつです。人間は愚かなので、年を取らない・死なないと本気で思っています。それでは不幸に陥って、人生 […]

2017年6月号

感覚の法則

 生命は、つねに六根(眼耳鼻舌身意)で対象(色声香味触法)を感じ続けています。無常ですから、「いまの感覚」は瞬時に消えて、すぐに次の感覚が生じます。その感覚をすでに消えた […]

2017年7月号

自他の壁を乗り越える「慈悲の見方」

 人間であれ、神々であれ、犬や猫であれ、どんな生命も、それぞれ「自分」という衣装を着て、個としての存在を誇示しています。まるで歌舞伎のようです。歌舞伎の舞台では、おなじ役 […]

2017年8月号

仏道の真髄

Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ;Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca.(ナ パ […]

2017年9月号

雨安居の真髄(ゴータミー精舎雨安居入り法要でのお話)

 お釈迦さまの時代、「解脱」という言葉だけは知られていました。しかし、実際に解脱に達した人は誰もいなかったのです。人類で初めて、真理を覚って解脱に達したお釈迦さまは、解脱 […]

2017年10月号

妄想に気づくと、心が成長をはじめる

 心には活動するためのエネルギーが必要です。心が肉体を動かして生きている。そのためにエネルギーがなければいけません。なぜ太陽が自転しているのかと言えば、膨大なエネルギーが […]

2017年11月号

幸せになるための因果法則

 因果法則からものごとを見れば、どんなことでもあり得ます。過去の業と現在の生き方が微妙に絡みあって、酷い目に遭うこともあります。いくら善行為をして生きていたとしても、過去 […]

2017年12月号

戒律の本質とは

 戒律のことを、みなさん宗教的なタブーのように思っているみたいです。ことさらに戒律の項目を数えたりして、犯してはならない決まりの数を競っている。しかし、そのような態度は仏 […]

2018年1月号

「疑」とはなにか?

「疑(ぎ)」とはなんでしょうか?  どんな人間でも何かを知っています。その知っている範囲によって世界は変わってきます。しかし、私たちが知っている知識や事実や真理と言われる […]

2018年2月号

善悪を乗り越える善の完成

 今回は「善悪」の問題について考えましょう。仏教では、いわゆる悪を「罪pāpa」と「不善akusala」の二つに分けます。「罪」は激しく、「不善」は徐々に命を破壊する悪行 […]

2018年3月号

ストーリーという「苦」の根源

 過去とは、過ぎ去った時間の流れではありません。ひとが生きてゆく流れが過去です。仏教的に理解して欲しいのは、過去とは行為の流れだということです。私たちが気になるのは「自分 […]

2018年4月号

「行為にゴールは存在しない」という発見

 仏教で強調する「過去を追ってはならない」という言葉の真意は、史実を忘れることではありません。感情で捏造した嘘の過去・幻覚の過去を捨てよ、ということです。「私は○○」と憶 […]

2018年5月号

私はお釈迦さまに褒められる人間だろうか?

 如来(ブッダ)にとって、ご自身が説いた言葉を人々が実践して結果を得ること、幸福になることこそが最高の称賛なのです。如来にとって、世間の評判などどうでもいいことです。でも […]

2018年6月号

包丁に包丁自身を切れるのか?ーーこころのジレンマを乗り越える

 ある人の本に、「包丁にはなんでも切れますが、包丁自身を切ることはできない」という言葉がありました。その一言に、真理を理解するためのポイントがあります。われわれは「こころ […]

2018年7月号

故人のために泣くのは悪行為であるーー「私は死なない」という邪見

 俗世間では死を恐れて、タブー視して、「放送禁止用語」にしています。それでも、死を逃れられないので、誤魔化しをするのです。「あの方は天国に召されました」などとよく言われる […]