凝縮された仏教のエッセンス
「智慧の扉」は、機関誌パティパダーの巻頭に毎号掲載されている、スマナサーラ長老による読み切りのコラムです。見開き2ページの短い文章の中に、お釈迦さまの教えがギュッと詰め込まれています。短い時間で読めますので、ちょっとした待ち時間などにも触れてみてください。くり返し読むことで、きっとまた新しい発見があると思います。
新着記事
- 2022年2月号(183)
- 2024年11月13日
他人をジャッジしない修行
人間はいつでも「我は完璧だ」という態度で生きています。パートナーや子供がわがままだから私は毎日つらいのだ、職場の人々が親切ではないから私は不幸なのだ、という具合に、「悪 […]
- 2022年1月号(182)
- 2024年11月13日
すべての問題を解く鍵
人生にはいろいろな問題が起こります。しかし、どんな問題にも乗り越える方法があるのだと仏教は言います。なぜならば、いかなる問題も原因があって現れたものだからです。その原因 […]
- 2021年12月号(181)
- 2024年6月21日
人に教えるにはウペッカー(捨)が必要です
他人を自分の希望どおりに直すことはできません。世界は個人個人で成り立っているのです。人間関係とは、人の個性を侵害せず、平和と調和を保つことです。子育てという仕事を分析す […]
智慧の扉インデックス
2016年12月号
「気づき」で生まれる能力とは?
現代社会では、仏教のヴィパッサナー実践の一部を「マインドフルネス」として俗世間的に使っています。人間とは面白いもので、仏教ではないならば有難がって飛びつくのです。 お […]
2017年1月号
仏道とは「こころの掃除」です
マイホーム(my home)という単語があります。日本語で実家という意味とはちょっと違います。実家は親の家ですが、マイホームは、「自分の家」という意味です。みなさんは、 […]
2017年2月号
恩を知る生き方
パーリ語には「恩を知る」という意味で、kataññū (カタンニュー), katavedī (カタヴェーディー)という単語があります。恩を知るとは、他の生命の助けで生き […]
2017年3月号
「わがまま」を修行に活かす
俗世間でも、ブッダの教えでも、一般的に「わがままは良くない」と戒めています。しかし、誰にでもあるこの「わがまま」という精神を修行に使う裏技があるのです。いつでも自分の幸 […]
2017年4月号
「正見」とは見解がないこと
意見・知識・見解とは、存在欲を支えるものです。私たちは「この人が言っていることはおかしいぞ」「あの人の意見もおかしいな」「この人の知識レベルは少しマシだ」「あの人の見解 […]
2017年5月号
命は儚い、死は確実
「死」という現実をそのまま観察する死随観は、お釈迦さまが推薦する冥想のひとつです。人間は愚かなので、年を取らない・死なないと本気で思っています。それでは不幸に陥って、人生 […]
2017年6月号
感覚の法則
生命は、つねに六根(眼耳鼻舌身意)で対象(色声香味触法)を感じ続けています。無常ですから、「いまの感覚」は瞬時に消えて、すぐに次の感覚が生じます。その感覚をすでに消えた […]
2017年7月号
自他の壁を乗り越える「慈悲の見方」
人間であれ、神々であれ、犬や猫であれ、どんな生命も、それぞれ「自分」という衣装を着て、個としての存在を誇示しています。まるで歌舞伎のようです。歌舞伎の舞台では、おなじ役 […]
2017年8月号
仏道の真髄
Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ;Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca.(ナ パ […]
2017年9月号
雨安居の真髄(ゴータミー精舎雨安居入り法要でのお話)
お釈迦さまの時代、「解脱」という言葉だけは知られていました。しかし、実際に解脱に達した人は誰もいなかったのです。人類で初めて、真理を覚って解脱に達したお釈迦さまは、解脱 […]
2017年10月号
妄想に気づくと、心が成長をはじめる
心には活動するためのエネルギーが必要です。心が肉体を動かして生きている。そのためにエネルギーがなければいけません。なぜ太陽が自転しているのかと言えば、膨大なエネルギーが […]
2017年11月号
幸せになるための因果法則
因果法則からものごとを見れば、どんなことでもあり得ます。過去の業と現在の生き方が微妙に絡みあって、酷い目に遭うこともあります。いくら善行為をして生きていたとしても、過去 […]
2017年12月号
戒律の本質とは
戒律のことを、みなさん宗教的なタブーのように思っているみたいです。ことさらに戒律の項目を数えたりして、犯してはならない決まりの数を競っている。しかし、そのような態度は仏 […]
2018年1月号
「疑」とはなにか?
「疑(ぎ)」とはなんでしょうか? どんな人間でも何かを知っています。その知っている範囲によって世界は変わってきます。しかし、私たちが知っている知識や事実や真理と言われる […]
2018年2月号
善悪を乗り越える善の完成
今回は「善悪」の問題について考えましょう。仏教では、いわゆる悪を「罪pāpa」と「不善akusala」の二つに分けます。「罪」は激しく、「不善」は徐々に命を破壊する悪行 […]
2018年3月号
ストーリーという「苦」の根源
過去とは、過ぎ去った時間の流れではありません。ひとが生きてゆく流れが過去です。仏教的に理解して欲しいのは、過去とは行為の流れだということです。私たちが気になるのは「自分 […]
2018年4月号
「行為にゴールは存在しない」という発見
仏教で強調する「過去を追ってはならない」という言葉の真意は、史実を忘れることではありません。感情で捏造した嘘の過去・幻覚の過去を捨てよ、ということです。「私は○○」と憶 […]
2018年5月号
私はお釈迦さまに褒められる人間だろうか?
如来(ブッダ)にとって、ご自身が説いた言葉を人々が実践して結果を得ること、幸福になることこそが最高の称賛なのです。如来にとって、世間の評判などどうでもいいことです。でも […]
2018年6月号
包丁に包丁自身を切れるのか?ーーこころのジレンマを乗り越える
ある人の本に、「包丁にはなんでも切れますが、包丁自身を切ることはできない」という言葉がありました。その一言に、真理を理解するためのポイントがあります。われわれは「こころ […]
2018年7月号
故人のために泣くのは悪行為であるーー「私は死なない」という邪見
俗世間では死を恐れて、タブー視して、「放送禁止用語」にしています。それでも、死を逃れられないので、誤魔化しをするのです。「あの方は天国に召されました」などとよく言われる […]